試作車完成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 20:17 UTC 版)
1954年9月、製作開始からわずか半年ほどで、ロイトを手本にした左ハンドルの試作車2台が完成した。 試作車ボディは、戦前のオースチンベースの試作車を手がけた経験のある鈴木出入りの平岡ボデー社員の板金職人たちが、少人数の手叩きで作ってのけた。形態はロイトに酷似しており、寸法を軽自動車規格に調整したぐらいの差異であった。 エンジンについては、6月に社名を鈴木自動車工業に変更してからほどなく、試作240ccエンジンが完成し、焼き付きなどの問題に直面しながらも試行錯誤で実用水準への改良を進めた。しかし、元のロイトが400ccであるのに、鈴木試作エンジンは240ccで、軽乗用車のエンジンとしても非力さを否めず、技術陣はこれを危惧していた。 ところが1954年10月、軽自動車の2ストロークエンジンの上限排気量は、翌1955年(昭和30年)4月以降、4ストローク同様の360ccに拡大されることが決定した。360cc2ストローク車を軽自動車として市販できる見込みが立ったのである。このため鈴木でも急遽エンジンを360cc級にスケールアップ、ロイトに近い性能を確保できることになった。 出来上がった試作車2台は、浜松周辺の公道で早速テスト走行に入り、耐久性問題の洗い出しが図られた。 意を強くした鈴木道雄は、当時既に輸入車ディーラーの代表格であった梁瀬自動車の経営者・梁瀬次郎に、自社の試作車の判定を仰ぐことを決意する。そこで道雄は、試作車を東京の梁瀬自動車まで自走させるという大胆な挙に出た。 1954年10月25日午前2時、道雄社長の招集により、鈴木三郎部長と、稲川誠一ら四輪研究室メンバー5名が、浜松市内の道雄の自宅に集められた。開発陣一同は試作車2台に分乗、乗員以外の空きスペースにはスペアパーツや工具を詰め込んで、道雄社長を乗せた伴走車のフォルクスワーゲンと共に夜明け前の浜松を出発した。試作1号車は川島勇が、そして2号車は鈴木三郎がそれぞれ運転した。 車列は当時まだ悪路の多かった国道1号を大きなトラブルもなく走り続けたが、途中最大の難所・箱根の山越えでアクシデントが生じた。1号車は好調に峠まで登り切ったものの、2号車がオーバーヒートで焼き付きを起こしたのである(稲川によれば、1号車の川島はエンジンをよく回していたので勢いがあったのに対し、鈴木三郎は低速ギアで引っ張る運転が災いしてオーバーヒートを誘発したらしい)。やむなく2号車に同乗していた稲川ら2名が下車、荷物も下ろし、マフラーを外して爆音を立てながら、途中幾度も休みを入れつつ、ようやく峠を登り切ったという。 このため東京到着は遅れ、ゴールの梁瀬自動車芝浦工場着は実に夜11時となったが、梁瀬次郎は工場で自社スタッフと共に待機して一行を出迎えた。梁瀬は試作車を検分し、深夜の工場周辺で試作車を自ら乗り回すなどして、日付の変わった夜半過ぎまでテストを続けた。運転を終えた梁瀬は、試作車の改良すべき点を多々指摘しながらも概して好意的な評価を与え、鈴木道雄と開発スタッフを力づけた。浜松出発からテストを終えるまでほぼ24時間、「スズライト」開発途上におけるもっとも長い一日であった。
※この「試作車完成」の解説は、「スズキ・スズライト」の解説の一部です。
「試作車完成」を含む「スズキ・スズライト」の記事については、「スズキ・スズライト」の概要を参照ください。
- 試作車完成のページへのリンク