白棚鉄道の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:55 UTC 版)
免許状を下付された白棚軽便鉄道は、1914年春から株式募集活動を始め、6月17日に白河町で会社設立総会を開き定款、役員を決定した。なお発起人代表の西田は1913年1月に発起人から脱退している。地元有志たちからは須賀川出身の立憲国民党(のち憲政会)代議士、愛国生命保険社長の鈴木万次郎が推されていたが、鈴木が福島市の土建業者で福島電燈他多数の会社の重役を務める大島要三を推したため、大島が社長に就任した。この頃に白棚軽便鉄道から白棚鉄道に改称した。 1914年6月20日、工事施工認可申請を行ない(認可期限の2日前)、まもなく測量に着手し、用地買収に着手した。沿線住民は鉄道建設に協力し用地買収は順調に進められ、9月までに測量が終了し、用地買収は11月30日までに全部終了した。1915年3月18日工事施工申請を行ない工事に着手。翌年には国有鉄道(鉄道院)線との連絡上、軌間を762mmから1067mmに変更することにし、資金の不足分は愛国生命の融資によった。そして1916年10月8日に白河町 - 金沢内間が開業し、続いて11月29日に金沢内 - 磐城棚倉間が開業した。軌条、車両とも鉄道院からの払下げであった。また梁森駅から白河炭鉱まで引込線を開通させた(0.77哩)。白河炭鉱の所有者は取締役の安川栄次郎である。1918年になり白河鉱業合資会社を設立し、大島と鈴木が出資社員になった。 経営状況は貨物収入の伸び率が旅客収入の伸びより悪かった。また借入金の利子が累積赤字とし、残る状態は経営の枷となり、配当が出たのは1922年下期からであった。また貨物収入を見込み、引込線を敷設した白河炭鉱は1917 - 1919年が最盛期で、このころの出炭量は年6000トン位であったが、1920年には休山となってしまう。安川は1918年に炭坑商船蔵内次郎作に売却し、白棚鉄道取締役を1921年10月に辞任する。 1923年ころから不況の影響がみられるようになり、貨物が減少した。また乗合自動車が白河-棚倉間の運転をはじめ、旅客数が減少したため1924年に運転回数の増加で対応した。さらに1929年に乗合自動車に対抗するため、列車本数頻発と燃料費節約をはかるべくガソリンカーを投入し、専用停留場を設けて旅客確保に努めたが、昭和金融恐慌もあり、1925年下期を最後に無配に転じた。
※この「白棚鉄道の成立」の解説は、「白棚線」の解説の一部です。
「白棚鉄道の成立」を含む「白棚線」の記事については、「白棚線」の概要を参照ください。
- 白棚鉄道の成立のページへのリンク