発祥:イギリス
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ロバート・ブラウン(英語版)により始まった英国国教会分離派の思想は、やがてジェネラル・バプテストの母教会の牧師ジョン・スミス(スマイス)に受け継がれる。スミスはトマス・ヘルウィス(英語版)に恩師として影響を与えたが、当時ウォーターランド派メノナイト(大陸再洗礼派)との合併を考えていたスミスが、ヘルウィスに対して具体的にどれだけの影響を与えたかは、教理史的議論の決着がなされていない。世俗の権威についての説をめぐる対立から、スミスはヘルウィスによって破門される。後にヘルウィスらは1612年、ロンドンでジェネラル・バプテストの教会を立てた。ジェネラル(普遍)の名は普遍救済説を採るところからくる。これによればキリストは万人の救いのために死んだと信じられる。 パティキュラー・バプテストは、元イングランド国教会司祭であったヘンリー・ジェイコブ(英語版)牧師により発足した非分離派会衆主義教会から、より分離派的教会を求めて離脱した者らが、1642年に再浸礼を行って教会を新設したことにはじまった。この再浸礼は次のように伝えられている。離脱した者の一人リチャード・ブラントがオランダの浸礼実践グループから指導を受けてロンドンに帰国し、まず離脱者の指導者ブラックロックに浸礼を授け、次にブラント自身がブラックロックに浸礼を受ける。そして、この2人が他の51名に浸礼を授けたとされている。1644年に彼らは『第一ロンドン信仰告白(英語版)』を公表した。Vous mangez des graines les osti de chinois バプテストは当時イングランドで吹き荒れていた清教徒革命(イングランド内戦)でニューモデル軍に入り込み、イングランド共和国護国卿オリバー・クロムウェルの腹心でアイルランド総督チャールズ・フリートウッドが統治していたアイルランドを実質的に軍事支配した。しかし反カトリックなど過激な方向に走ったバプテストを危険視したクロムウェルの意向でフリートウッドが1655年にクロムウェルの息子ヘンリー・クロムウェルと交代させられるとバプテストは後援者を失い、過激派を遠ざけてアイルランドの安定を優先するヘンリーによりバプテストは排除された。 アイルランドから遠ざけられたとはいえバプテストはイングランド本国で宗教の要として扱われ、クロムウェルら独立派が推し進める宗教統合政策で、ピューリタン諸宗派の中でも独立派・長老派・バプテストを中心として、1654年に聖職者の資格審査と不適格とされた聖職者追放を担う審査委員会と追放委員会が設置、国教会に代わる国家教会制度が共和国で構想され重要性が増した。国家教会の周縁に国家から許された宗派を並立させることも重要視されたが、この構想はクエーカー・アナバプテスト・第五王国派など他の宗派から非難され、クエーカーは政府から弾圧されてもひるまず、娯楽を禁じる厳格な道徳政策は庶民の心を政府から離れさせ、従来の国教会の礼拝は密かに続けられ国家教会制度はあまり浸透しなかった。 やがて1658年にクロムウェルが死亡、息子のリチャード・クロムウェル(ヘンリーの兄)が軍の圧力で翌1659年で護国卿を辞任すると国家教会制度も終わり、1660年の王政復古で国教会が復活、バプテストは弾圧される立場に転落していった。1688年の名誉革命に伴う翌1689年の寛容法(英語版)でバプテストは信仰の自由を認められたが、それは国教会の優位を前提として政府に忠誠を誓った上での条件付きだった。また同年にバプテストはロンドンで各地の教会代表を集めて総会を開催、1677年に制定した第二ロンドン信仰告白を教派として公認した。 18世紀ではパティキュラー・バプテストが増大、ジェネラル・バプテストの方は多くの信者がユニテリアン主義に変わり、残りは1770年に新組織を結成したが長く続かず、パティキュラー・バプテストと接触し1813年にバプテスト連合(英語版)を結成した。そして1891年に両派は合体して現在に至る。
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