教義史
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教義史(きょうぎし、ドイツ語:Dogmengeschichte)とは、キリスト教の教義・教理の批判的研究である。教理史とも訳されている。[1]
歴史
批評的教義史は自由主義神学(リベラリズム)によって確立された[2]。ヨハン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・イェルーザレムがその創始者である[2]。
イェルーザレムは両性説(まことの神、まことの人)や三位一体の教理・教義は聖書に無いとする[2]。アドルフ・フォン・ハルナックは、キリスト論、受肉の教理・教義をヘレニズム由来としている[2]。
G.S.シュタインバートは、代償的贖罪の教理、原罪についてのアウグスティヌスの教理、贖い、キリストの義の転嫁の教理が「恣意的仮説」であるとしている[2]。
脚注
参考文献
- 『キリスト教神学入門』アリスター・マクグラス 教文館
- 『キリスト教大辞典』日本キリスト教協議会(NCC)
教理史
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初代教会には原罪の教理について様々な見解があった。 2世紀のエイレナイオスは、全ての人類の頭であるアダムにおいてすべての人類が文字通り罪を犯したとした。テルトゥリアヌスは初めて、アダムとイヴから人類全てが受け継ぐものとして原罪を理解した。他方アレクサンドリアのクレメンスは、原罪は全ての人間が罪を犯すという事実を表す象徴であると主張し、原罪は現行罪の不可避性を表現するものと理解した(場合によっては、クレメンスは原罪説を否定していると解されることもある)。 受け継がれるものとしての原罪について詳細に説明し、「アダムから遺伝された罪」とし、両親の性交を遺伝の機会として解釈したのは、アウグスティヌスである。カトリック教会(西方教会)は、オランジュ公会議(529年、Councils of Orange)において、原罪にかかるアウグスティヌスの教えを承認した。アウグスティヌスはアダムとイブが恥じ、陰部を隠したのは性行為を行ったからであると解釈し、それを原罪とした。[要出典] 宗教改革以降、アウグスティヌスの教え、およびオランジュ公会議のカノン[要曖昧さ回避]などの影響を受け、改革派教会は原罪にかかる教理として全的堕落説を展開した。これに対し、カトリック教会はトリエント公会議(1546年 - 1547年)において予定説とともに全的堕落説を否定することを確認し、アウグスティヌスの教えについて誤解している(とカトリック教会は考えた)プロテスタントの教えを否定し、原罪にかかる教理を確認した。 一方、正教会は上述のように公会議や教義論争を通じて原罪の概念の定式化に努めた西方教会と異なり、同概念につき、公会議による定理化(教義化)を避けてきており、その理解には様々な見解の余地がある多様性がある。ニッサの聖グリゴリイ(ニュッサのグレゴリオス)をはじめとしたギリシャ聖師父を引証しつつ、アダムとイヴの堕落の結果は肉体のみならず道徳的な面にも及ぶと理解されるが、アウグスティヌスのような「弱さと同時に罪責を(受け継いだ)」とするような「法律的な」理解は避けられる。
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