教理上の相違
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/24 06:34 UTC 版)
「エホバの証人に関する論争」の記事における「教理上の相違」の解説
エホバの証人は、キリスト教の主流派(カトリック教会、正教会、プロテスタント)と異なる多くの教理を持ち、その中には重要とされる点もあれば、あまり問題とならない点もある。以下の比較表は、物議をかもす・問題となるエホバの証人の教理と、それに対応する主流キリスト教の教理をまとめたものである。 主流のキリスト教徒の教え(カトリック教会、正教会、プロテスタント)対応するエホバの証人の教え神の本質神は自身を「父」、「子」、「聖霊」として明らかにし、それらは一つの神である(三位一体参照)。 唯一「父」(エホバ)のみが神である(ユニテリアン主義参照)。 イエス(「子」)は受肉された神である。その地上における生活の期間、彼は完全な神であり、完全な人であった。 イエスは「神の子」であるが、神ではない。 「聖霊」は三位一体の一位格である。聖霊は不変であり、力の点で神に等しい。 聖霊は神の人格ではなく、「活動する力」。 イエスイエスは「神の子」である。彼は受肉した神である。 イエスは「神の子」であり、神(a god、または divine being(神性を備えたもの))であるが、唯一の神そのものではない。イエスはみ使いの頭ミカエルとして人類の創造以前から存在し、啓示の書 9章11節で言及された、アポルオン/アバドンでもある。 イエスは十字架に磔にされた。 イエスは苦しみの杭に釘で打ちつけられた。 イエスの肉体は復活した。 イエスの肉体は復活せず、彼は霊において復活した。 キリストの地上への再臨は物理的なものであり、それは未だ訪れていない。 キリストの再来は1914年に目に見えない所で起こった。 死/死後の生活人の魂は永遠であって、いかなる時にも存在が終わりを迎えることはない。 魂は身体の死と共にその存在を終え、再び生きるためには復活が必要とされる。 全人類は、それぞれ死の直後から天国、地獄、煉獄(カトリック教会の場合)における死後の世界が始まる。 すぐに天へと連れ去られる14万4千人以外を除いては、霊的な死後の世界はない。煉獄もない。地獄は人類共通の墓である。 罪深い者は地獄で永遠に苦悩するであろう。 永遠の苦痛はない。(ユダのような)許されざる罪を犯した者は、死に際して「ゲヘナ」(永遠の破滅、あるいは滅び)の裁きを経験する。 裁きと救い復活の際、人々は、彼らが地上で生活した間に行った事柄によって裁かれる。 復活させられた人々は、彼らの復活後になされた活動を元に裁かれるであろう。 救われた(生まれ変わる)人々は、神と共に、天国で永遠に過ごすであろう。 ただ14万4千人だけが生まれ変わり、キリストと共に地上を支配し、天で永遠に過ごすであろう。ゲヘナの裁きを受ける者達を除き、死んだ全ての者(義者・不義者、共に)は、地上の楽園で永遠に生きる可能性がある者として復活させられるであろう。 救われるためには、人はイエス・キリストを信じなければならない。キリスト教教派のうち洗礼による新生の立場の教派では、救いにはバプテスマが不可欠であると信じる。多くのクリスチャン(特にカトリック教会)は、良い業が重要であると信じる。 義のために、人はイエスの命令に従わなければならず、エホバに献身し、エホバの証人の一人として神に仕える。 ほとんどのキリスト教徒は、こういったエホバの証人の信条の本質は冒涜もしくは異端であると考えている。よって、多くのキリスト教教派は、これらの信念をもつエホバの証人はキリスト教の枠外にあると考えており、カルトや非キリスト教といったレッテルを貼ることもしばしばある。
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