生産体制の確立と維持
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T-34は、ソ連工業にとって新たなる挑戦だった。T-34の装甲はそれまで作られていた中戦車のどれよりも厚いもので、いくつかの工場で作られた部品を組み合わせて作る必要があった。例えば、V-2エンジンは第75ハリコフディーゼル工場が供給し、レニングラードのキーロフスキー工場(前身はプティロフ工場)が76.2 mm 砲 L-11の原型をつくり、モスクワのダイナモ工場が電気部品を作るといった具合である。当初、T-34は第183ハリコフ機関車工場のみで作られたが、1941年初期からはスターリングラード・トラクター工場がこれに加わり、ドイツが侵攻してきてからしばらく経った7月にはゴーリキー(現ニジニ・ノヴゴロド)の国営第112クラスノヤ・ソルモヴォ工場でも生産が始まった。この頃は不完全な装甲板が生産される問題があった(Zaloga 1983:6)。新型のV-2エンジンの数が不足したため、国営第112クラスノヤ・ソルモヴォ工場での初期の生産においてはBT戦車にも使われたガソリン式のミクーリン M-17航空機エンジンや、性能の劣った変速機やクラッチを取り付けていた(Zheltov 2001:40-42)。無線機は高価である上に供給量も少なく、中隊長用の戦車にのみ取り付けられた。当初装備されたL-11砲は期待通りの性能を発揮しなかったため、ゴーリキーの第92工場にあったワシリー・グラビン技師の設計チームはより優れたF-34 76mm戦車砲を設計した。官僚たちは生産を認めなかったが、第92工場とハリコフ機関車工場はそれに構わず新型の砲の生産を始めた。前線の部隊からこの新型砲への賞賛の声が届いた後、スターリンのソ連国家防衛委員会から、ようやく新型砲生産の正式な許可が届いたのだった(Zaloga & Grandsen 1984:130)。 ソ連陸軍の保守派からは「旧式のT-26やBT戦車の生産も継続すべき」とか、「より発展したT-34Mの設計が固まるまでT-34の生産は延期すべき」といった政治的な圧力が掛った。こうした政治的圧力は、T-34と競争関係にあったKV-1戦車やIS-2戦車の開発グループが吹聴したものであった(Sewell 1998)。 1941年6月22日、ドイツがソ連を奇襲攻撃したバルバロッサ作戦が開始された(独ソ戦の始まり。)。これを受けてソ連軍は戦車の改良を凍結し、戦車の大量生産に舵を切った。 ドイツ軍の進撃は速かったため、それまでに前例がないほどのスケールと速さで戦車工場をウラル山脈へ疎開させねばならなかった。ハリコフ機関車工場はニジニ・タギルのジェルジンスキー・ウラル貨車工場の近辺に移設されることとなり、第183スターリン・ウラル戦車工場と改称した。キーロフスキー工場は、その一週間前にレニングラードから避難して、ハリコフ・ディーゼル工場と共にチェリャビンスクのスターリン・トラクター工場となり、間もなくチェリャビンスクには「タンコグラード」(戦車の町)という別名が付けられた。レニングラードから避難した第174ヴォロシーロフ戦車工場はウラル工場に吸収されて新たに第174オムスク工場として再出発した。いくつかの小さい工場はエカテリンブルクのオルジョニキーゼ・ウラル重機械工具製作所(UZTM)に吸収された。これらの工場が記録的な速さで移動している間、スターリングラード・トラクター工場周辺の工業地区がT-34の全生産量の内の40パーセントを生産していた(Zaloga & Grandsen 1983:13)。この工場はスターリングラード攻防戦の激戦の中で包囲されてしまい、状況は絶望的になった。物資の不足により生産方法を変更せざるを得ず、塗装されていないT-34が周辺の戦場へ出て行ったとする主張もある(Zaloga & Sarson 1994:23)。スターリングラードの工場は1942年9月まで生産を続けた。 スターリングラードのように生産が妨害された場合は別として、生産現場に許されたのは戦車をより簡単に、より安く作るための変更だけであった。エフゲニー・パトン教授による技術革新などにより、板の溶接および硬化を自動化する方法が開発された。F-34 76mm戦車砲は初期型では部品数が861点あったが、それが614点まで少なくなった(Zaloga & Grandsen 1984:131)。その後の2年間で、戦車の生産コストは1941年時点の26万9500ルーブルから、19万3000ルーブルへ下がり、その後更に13万5000ルーブルにまで抑えられた(Zaloga & Grandsen 1984:131)。そして戦車の生産に要する時間は、熟練工員が戦場に送られて、50パーセントが女性・15パーセントが少年・15パーセントが身体障害者や老人という勤労団が生産を行うという状況にもかかわらず、1942年末までに半分の時間にまで短縮された。それと同時にT-34は、それまでは「美しい外面仕上げで立派に作られた機械であり、西欧やアメリカと並び立つ、あるいは優れている」と言われていたが、この頃になると表面の仕上げは雑になっていた。しかし機械的な信頼性には妥協がなかった(Zaloga & Grandsen 1983:17)。
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