生産体制の確立と維持とは? わかりやすく解説

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生産体制の確立と維持

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 01:39 UTC 版)

T-34」の記事における「生産体制の確立と維持」の解説

T-34は、ソ連工業にとって新たなる挑戦だった。T-34装甲それまで作られていた中戦車のどれよりも厚いもので、いくつかの工場作られ部品組み合わせて作る必要があった。例えば、V-2エンジンは第75ハリコフディーゼル工場供給しレニングラードのキーロフスキー工場前身はプティロフ工場)が76.2 mmL-11原型をつくり、モスクワダイナモ工場電気部品作るといった具合である。当初T-34は第183ハリコフ機関車工場のみで作られたが、1941年初期からはスターリングラード・トラクター工場がこれに加わりドイツ侵攻してきてからしばらく経った7月にはゴーリキー(現ニジニ・ノヴゴロド)の国営112クラスノヤ・ソルモヴォ工場でも生産始まったこの頃不完全な装甲板生産される問題があった(Zaloga 1983:6)。新型V-2エンジンの数不足したため、国営112クラスノヤ・ソルモヴォ工場での初期の生産においてはBT戦車にも使われガソリン式のミクーリン M-17航空機エンジンや、性能劣った変速機クラッチ取り付けていた(Zheltov 2001:40-42)。無線機高価である上に供給量も少なく中隊長用の戦車にのみ取り付けられた。当初装備されL-11砲は期待通り性能発揮しなかったため、ゴーリキーの第92工場にあったワシリー・グラビン技師設計チームはより優れたF-34 76mm戦車砲設計した官僚たち生産認めなかったが、第92工場ハリコフ機関車工場はそれに構わず新型の砲の生産始めた前線部隊からこの新型砲への賞賛の声が届いた後、スターリンソ連国家防衛委員会から、ようやく新型生産正式な許可届いたのだった(Zaloga & Grandsen 1984:130)。 ソ連陸軍保守派からは「旧式T-26BT戦車生産継続すべき」とか、「より発展したT-34Mの設計が固まるまでT-34生産延期すべき」といった政治的な圧力が掛った。こうした政治的圧力は、T-34競争関係にあったKV-1戦車IS-2戦車開発グループ吹聴したものであった(Sewell 1998)。 1941年6月22日ドイツソ連奇襲攻撃したバルバロッサ作戦開始された(独ソ戦始まり。)。これを受けてソ連軍戦車改良凍結し戦車大量生産に舵を切ったドイツ軍進撃速かったため、それまで前例がないほどのスケール速さ戦車工場ウラル山脈疎開させねばならなかった。ハリコフ機関車工場ニジニ・タギルのジェルジンスキー・ウラル貨車工場近辺移設されることとなり、第183スターリン・ウラル戦車工場改称した。キーロフスキー工場は、その一週間前にレニングラードから避難して、ハリコフ・ディーゼル工場と共にチェリャビンスクのスターリン・トラクター工場となり、間もなくチェリャビンスクには「タンコグラード」(戦車の町)という別名が付けられた。レニングラードから避難した174ヴォロシーロフ戦車工場ウラル工場吸収され新たに174オムスク工場として再出発したいくつかの小さ工場エカテリンブルクのオルジョニキーゼ・ウラル重機工具製作所(UZTM)に吸収された。これらの工場記録的な速さ移動している間、スターリングラード・トラクター工場周辺工業地区T-34の全生産量内の40パーセント生産していた(Zaloga & Grandsen 1983:13)。この工場スターリングラード攻防戦激戦の中で包囲されてしまい、状況絶望的になった。物資の不足により生産方法変更せざるを得ず塗装されていないT-34周辺戦場へ出て行ったとする主張もある(Zaloga & Sarson 1994:23)。スターリングラード工場1942年9月まで生産続けたスターリングラードのように生産妨害され場合は別として、生産現場許されたのは戦車をより簡単に、より安く作るための変更だけであった。エフゲニー・パトン教授による技術革新などにより、板の溶接および硬化自動化する方法開発された。F-34 76mm戦車砲初期型では部品数が861点あったが、それが614点まで少なくなった(Zaloga & Grandsen 1984:131)。その後2年間で、戦車生産コスト1941年時点の269500ルーブルから、193000ルーブルへ下がり、その後更に135000ルーブルにまで抑えられた(Zaloga & Grandsen 1984:131)。そして戦車生産要する時間は、熟練工員が戦場送られて、50パーセント女性15パーセント少年15パーセント身体障害者老人という勤労団が生産を行うという状況にもかかわらず1942年末までに半分時間にまで短縮された。それと同時にT-34は、それまでは「美し外面仕上げ立派に作られ機械であり、西欧アメリカ並び立つ、あるいは優れていると言われていたが、この頃になると表面の仕上げ雑になっていた。しかし機械的な信頼性には妥協がなかった(Zaloga & Grandsen 1983:17)。

※この「生産体制の確立と維持」の解説は、「T-34」の解説の一部です。
「生産体制の確立と維持」を含む「T-34」の記事については、「T-34」の概要を参照ください。

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