生産全般
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 08:02 UTC 版)
「中島飛行機半田製作所」の記事における「生産全般」の解説
1944年1月から終戦にいたるまでの間に半田製作所は、政府発注2411機に対して1417機の機体を生産した(小松工場分を含む)。 生産が開始されフル操業に入るに従い、1944年5月までの間は生産能力が高まり生産数は増加した。1944年6月には彩雲の生産を始める準備のため生産が減った。1944年12月の東南海地震のために建物や内部施設は大きな損害を被り、これによって生産能力は著しく減少した。このことが1月の生産減少をもたらした。その後の急速な復旧によって3月の総生産数は140機を越え、半田製作所の月間最高記録となった。半田での3月の生産は、その月の日本の航空産業総生産の約7%を占めていた。1945年5〜6月、生産数はかなり減少した。その理由は生産を天山から彩雲に切り替えるので設備の転換を決めた結果、生産が減ったことにもよる。だが主としては部品の供給が一時的に滞ったためである。7月にはその障害が取り除かれたが、7月の空襲によって生産数は減少し続けた。 1945年1月にはアルミニウムの所要量を減らすため、胴体部のアルミニウム板の代用品として鋼板が使われた。その結果重量は10〜15%増加した。ほぼ同じころ、翼の先端部や操縦席の計器盤には金属の代わりにベニヤ板が使われた。同様にニッケル、クロム、マンガン等が一層乏しくなってきたのでシリコンマンガン鋼やニッケルクロム鋼の代わりに炭素鋼が使われた。代用品を使うことについては、海軍の推薦によるものであったから、製作所自身はなんら代用品を使うことについて実験を行わなかったという。 当初の計画では、全体組立が終わると飛行機は本工場の真東に延びる直結道路を通って飛行場まで運ぶことになっていたが、本工場内の埋め立て工事が完成していなかったためその直結道路も使えなかった。そこで代わりに使用したのが現在の国道247号線だった。国道の幅は最初は15メートルしかなかったがこれでは飛行機が通らないので16メートルを中島が寄付して31メートル幅の道路にした。そのとき飛行機を飛行場まで運んだのは牛だったという。なお飛行機運搬に使った道路幅は現在の247号線にも踏襲され、本工場跡に面した所が幅広となっている。 本工場内の飛行場は離陸専用だったため、半田で完成した飛行機は充分整備の上、当初ここから鈴鹿航空隊へ、後に岡崎航空隊に空輸して、再度充分に点検整備の上、海軍の領収検査飛行を受けて合格、海軍への納入手続きをして引き渡しを完了する手順であった。 なお米軍は戦争中、半田製作所で天山・彩雲のほか、Rufe(二式水上戦闘機)やZeke(零式艦上戦闘機)生産の情報を得ていたが、いずれも戦後間違いであったことを確認している。
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