生産再開期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 05:38 UTC 版)
第二次世界大戦中は乗用車の生産は禁止され、パッカード社は1942年2月からイギリスの航空機用エンジンロールス・ロイス マーリンをライセンス生産した。軍需工場は受注の推移により戦況が予想できたようで、大戦終結前の1945年2月には、早くも民需生産への準備を開始した。 しかし、生産設備を野外に保管していた為、(対策を施していたにもかかわらず)湿気によるダメージを受け、生産開始前に修理が必要になり、実際の生産が本格的にスタートできたのは1946年に入ってからであった。伝統的なスタイルを持った1942年型パッカードのプレス型はすべてソビエト政府に売却したため、戦後型の生産はクリッパーのみでスタートした。 ソ連の独裁者として君臨していた指導者ヨシフ・スターリンはパッカードの愛用者で、対枢軸国戦略上、スターリンの機嫌を取るため、当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの仲介で、大型パッカードのプレス型がソ連に売却されたのである。これを利用し、ソ連のZIS(ジス、のちのジル)工場ではパッカードそっくりのボディを持つ高級車が生産された。 クリッパーは1947年まで生産されたが、登場時は革新的なスタイルだったクリッパーもこの頃にはさすがに古さを感じさせるようになり、1948年型では大規模なマイナーチェンジで大幅なイメージチェンジを図った。ノーズ回りにはハワード・ダーリンのデザインを残したまま、ボディサイド部分を当時流行した幅広のフラッシュサイドに近づけるアップデート措置であった。実際のデザイン作業を行ったのは、大手の名門ボディメーカーであり、1941年以来パッカードのボディ製作を請け負っていたブリッグス社である。また、このモデルからステーションワゴンとコンバーチブルが新たに加わった。 更にGMが先駆けたオートマティックトランスミッションの導入に対抗するため、1949年には自社開発のトルクコンバーター式2段AT「ウルトラマチック」を1950年モデルのオプションとして発売、フォードやクライスラーに先行した。 しかし当時、1948年下期までにはアメリカの主要メーカーのほとんどが戦後型への完全なモデルチェンジを完了しており、パッカードは遅ればせながら3年後の1951年型で戦後初めてフルモデルチェンジした。 1951年型は、パッカードにとって戦後初の全くの新型車である。ボディデザインはチーフスタイリストのジョン・ラインハートが担当した。経営面では1952年5月にジェイムス・J・ナンスが社長に就任、従来の大衆化路線を見直し、高級車としての権威を回復する路線に転換した。これを受け1953年型ではロングホイールベースモデルや、セミカスタムモデルが復活し、モデル名としてクリッパーの名称も復活した。
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