航空隊へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 02:31 UTC 版)
「マンフレート・フォン・リヒトホーフェン」の記事における「航空隊へ」の解説
リヒトホーフェンが志望した当時の飛行隊にはまだ戦闘機はなく、単機同士の銃撃戦や飛行機が編隊飛行を行うことさえなかった。飛行機は写真偵察や味方砲撃での着弾観測が主任務で、パイロット同様に優れた偵察員が必要とされた。彼の志望の動機も「少なくとも前線で何が起きているかを見ることができるから」であった。彼は、ケルンの第七飛行訓練所で4週間の座学と15時間の機上訓練を受けることとなり、訓練所では最初に機上試験で飛行機に乗れるかが試された。リヒトホーフェンの偵察員の訓練教官は、アルバトロスB.II(英語版)偵察機の名操縦士ツォイマー中尉であった。 1915年5月にリヒトホーフェンは最初の任地としてロシア戦線へ偵察将校として派遣された。操縦士のホルク伯爵が中隊に参加すると、彼とペアを組んで偵察任務に8月初めまでついた。その8月初旬、ホルク機でブレストに向け偵察飛行中炎上するビクツニスの街の上でエンジンが故障し、低空飛行で帰る途中ロシア軍に撃墜された。辛くもドイツ側占領地に不時着して、2人はプロイセン近衛連隊の兵士に救助された。その後すぐにリヒトホーフェンはオーステンデで編成されたドイツ軍初の長距離爆撃隊のツォイマー機の爆撃手となった。しかし爆撃任務のなか、戦果の確認中に不注意からプロペラで手を叩かれて戦争で最初の負傷をした。彼は治療中の1週間、飛行任務から解かれた。この頃になると、両軍搭乗員は当初拳銃やライフルで空中で撃ち合いを始めた。そして、軽機銃で武装する機も登場して偵察や爆撃任務の傍ら空中で銃撃戦が生じるようになった。リヒトホーフェンも9月にシャンパーニュでファルマン機と遭遇し初めての空中での銃撃戦を経験したものの敵機を撃墜することはできなかった。敵機撃墜を熱望したリヒトホーフェンは、オステロートとペアをアルバトロスC.III(英語版)機で組んだとき、並行して飛行したフランス軍のファルマン機を、軽機銃を100発射った後に初めて撃墜したが、敵前線に墜落したため非公認となった。 その当時、偶然会った4機撃墜のエース・パイロットオスヴァルト・ベルケ(ドイツ語版)に、彼は空戦の極意を尋ねた。答えは簡単なもので「近くに寄って撃て」だった。リヒトホーフェンも「自分もそうしているが落せない」とさらに尋ねると、「君は大きな爆撃機だが、自分はフォッカー単葉機に乗っているからだ」との答えが返ってきた。リヒトホーフェンは、爆撃機パイロットのツォイマーから飛行訓練を受けた。この飛行訓練期間中にバランスを崩して初めての墜落を経験したものの、彼はその2日後「飛ぶコツを突然に覚えた」という。 1915年12月25日デベリッケでの訓練飛行を終えて、1916年3月、ヴェルダン前面の第二戦闘飛行中隊に参加した。ベルケは自らの率いる第2戦闘機中隊 (Jasta 2 :Jagdstaffel 2) にリヒトホーフェンを配属した。リヒトホーフェンは複座のアルバトロスC.III機の上翼に機銃を前方と上方に射撃できるように装着した。同僚が機銃の効果を疑う中、4月25日フルリー・ドゥモーンでフランスのニューポール単座機を撃墜した。これがリヒトホーフェンがパイロットとなって撃墜した第1号、2機目の撃墜であった。しかし、個人での撃墜でないためリヒトホーフェンの最終撃墜記録には含まれていない。その後、ライマン少尉と1機のフォッカーE型単葉機を午前と午後で共同使用することになる。ライマンが撃墜(生存帰還)され、これによりリヒトホーフェンは漸く単独使用が出来るようになった。しかし、このフォッカーE型単葉機を彼は三度目の出撃時にエンジン故障で墜落させ、2度目の墜落を経験する。
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