王室の危機を超えて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 23:06 UTC 版)
「エリザベス2世」の記事における「王室の危機を超えて」の解説
1980年代以降、宮廷内部の職員・元職員が大衆紙(タブロイド紙、ゴシップ誌)に、王室のプライバシー情報を売り渡す「小切手ジャーナリズム」が横行するようになっていた。こうした中で、長男の妃ダイアナや、次男アンドルー王子夫妻のスキャンダルが次々と報じられていった。 1992年は、長女アン王女の離婚と再婚、次男アンドルー王子夫妻の別居、暴露本『ダイアナ妃の真実』の出版、結婚記念日に起きたウィンザー城の火災や、ポンド危機など、女王に取って公私ともに不運続きだったため、ロンドン市長主催の晩餐会で「アナス・ホリビリス」の発言をした。さらに発言後の12月にチャールズ王太子とダイアナ妃が別居を決めてしまう。 王太子は暴露本への反論として、テレビ出演や伝記出版を許可してプライバシーを「放棄」し、さらにその反撃に1995年11月には、ダイアナ妃が王太子や王室への事前調整のないままBBCのインタビューに応じ、自身を被害者としつつ「家庭の内情」を明かし、国民の支持を高めてしまった。女王は、このインタビューを悲しみをもって受け止め、離婚を勧告するに至った。結局、王太子夫妻は、1996年6月、ダイアナに有利な条件で離婚合意が公表され、同年8月28日に離婚が確定した。この離婚騒動は、合意に基づく多額の慰謝料・「未来の国王の母」であるダイアナの公式行事出席・二人の王子の養育権等の問題、さらには双方の再婚問題など、離婚後においても王室に深刻な悪影響を及ぼすと考えられた。 同年8月の世論調査では、21世紀の英王室存続について「消滅する」が43%、「存続する」が33%と、消滅派が1992年からわずか4年で6倍に急上昇する危機的な事態となった。このような状況にあっても、女王自身は「国家元首」と「民族の長」の役割を完全に果たしていることから、糾弾の対象とはならなかった。女王の危機意識は強く、王族と秘書らによる王室改革のための委員会を設立した。 ところが、翌1997年8月31日、嫁であったダイアナ元王太子妃がフランスのパリで交通事故により36歳で死去した際(英語版)、姑であった女王自身の意思の下で沈黙を続けたことが、王室の冷ややかな対応として批判を浴びることとなった。同年9月5日にテレビ放送を通じて哀悼のメッセージを送り、長男チャールズ王太子との離婚騒動以降、英王室から敬遠されていたダイアナ元王太子妃の名誉回復を行い、王室の信頼回復に努めた。 また、同年6月30日、香港返還式典が行われ、チャールズ王太子が女王の名代として香港へ赴く際に使用したのを最後に、王室ヨットブリタニア号(英語版)が退役し、12月の退役式典でエリザベス2世は人前で涙を流した。 自身の在位半世紀を迎えた2002年には、2月9日の妹マーガレットの逝去(71歳没)、3月30日の母エリザベス王太后の崩御(101歳没)と、同一年に肉親との死別が2回も続いた。 ダイアナのみが慈善活動をしていたかのような国民のイメージは誤解であり、チャールズ王太子が海軍の退職金を基に創設した「王太子財団(英語版)」はその活動を2003年に広報したところ、大きな反響を受け、王室構成員の長年にわたる様々な慈善・福祉活動が広く知られるようになった。こうした甲斐あって、チャールズは長年の恋人であったカミラと、強固な反対活動にも見舞われず再婚を果たした。 また、王室の歳費についても、王室の収入が一度国家予算に組み込まれていたことから、「税金で養っている」という誤解が生じていた。2011年に王室歳費法(英語版)が成立し、王室予算の独立性・透明性・健全性の向上を図った。 1991年5月14日、訪米時、ブッシュ米大統領夫妻と女王夫妻 1992年10月19日、訪独時、アウグストゥスブルク城にて、フォン・ヴァイツゼッカー独大統領夫妻と女王夫妻
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