王室の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 08:35 UTC 版)
「アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)」の記事における「王室の改革」の解説
1841年にアルバートは、ヴィクトリアの教育係のルイーズ・レーツェンの仕事ぶりに問題を感じたため、彼女の解任を考えるようになった。レーツェンは当時ヴィクトリアの秘書も務めており、王室の予算も諸々の人事権も握っていた。ヴィクトリアは母親同然に慕っているレーツェンの解任に猛反対したが、アルバートに説得されて、ついにレーツェンの解任に同意した。こうしてアルバートはようやく実権を握ったが、イギリス王室は大変な無秩序状態になっていた。その理由はレーツェンが他人の言いなりで、また年をとるにつれて全体への配慮が行き届かなくなっていたからだった。 当時のイギリス王室では、個々人が目先の利益ばかりを考え、好き勝手な振る舞いをしていた。例えばウィンザー城では、内側と外側の窓をそれぞれ別の部署が管理する、ということが平気で行なわれていた。さらに、この2つの部署は激しい縄張り争いを展開し、互いに相手の管轄へと踏み込んでいた。また、王族の人々が全員外出中のときでさえ、城ではたっぷりと食事を用意するのが習わしで、結局豪華な食事は召使達の胃袋に消えることとなった。さらに、ろうそくが使われていようがいまいが、全ての部屋のろうそくは毎日かかさず交換された。そして、18世紀後半、気前の良いジョージ3世が、赤の間と呼ばれる部屋に衛兵室を設け、当直中の衛兵にフランス産の赤ワインを毎日1本ずつふるまった、ということに端を発した「赤の間のワイン代」というものがあったが、ジョージ3世もこの世を去って既に久しく、衛兵室の存在もとうに人々から忘れ去られていたが、それでもワインだけは相変わらず大量に消費されていた。 アルバートは、このような数々の無駄遣いや、召使たちの無秩序ぶりを見て、いかにもドイツ人らしい徹底した方法で、王室全体を改革することにした。彼は職員の大半を入れ替え、王室の部署を大幅に削減した。そのため、改革前から勤めていた者も新しく入った者も、真剣に働かざるを得なくなった。当然、アルバートに彼らの憎悪や反発が向けられた。特に彼らの最大の不満は、職員が副業にしていた格好の収入源を、アルバートが潰してしまったことだった。彼らの多くは、王室の情報を新聞社に流して、いい収入を得ていた。しかし、アルバートが王室での出来事を掲載した公報を毎日発行するようになったため、これも不可能になった。また用具類に関しても、帳簿を付けさせてしっかり管理させた。 アルバートによるこうした数々の改革によって王室内部の混乱が一掃されたおかげで、王室費は全体として2万5,000ポンドもの節減になった。アルバートには優れた財政の才能があった。彼はこの他にもコーンウォール公領とランカスター公領からの収入を、わずか1年の間に大幅に増加させている。しかし、数々の成功にも関わらず、アルバートは「けちな男」や「金に細かい男」などと悪口を言われるようになってしまった。増えた分の収入は、田舎に別邸を建てるなど、アルバートによって有効に使われた。やがて彼はワイト島に広大な土地を購入し、オズボーン・ハウスを建て、毎年家族と過ごすようになった。
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