王室によるクーデター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 22:46 UTC 版)
「第二次世界大戦下のルーマニア」の記事における「王室によるクーデター」の解説
詳細は「ルーマニア革命 (1944年)」を参照 1944年8月23日、ヤッシー=キシニョフ攻勢において赤軍がドイツ軍を突破するなか、ミハイ1世は野党の政治家、軍の大部分、共産主義者の支援を受けて、枢軸国に対するクーデターを成功させる。当初は実権のない国王にすぎないと考えられていたミハイ1世は、アントネスクの独裁政権の追放を成し遂げた。その後、彼はドイツ大使のマンフレート・フォン・キリンガーに対して、平和的に撤退するよう申し入れを行った。しかし、ドイツ人たちはクーデター前の状態に戻すことができると考え、軍事力によって状況を好転させようと試みた。ルーマニアの第1軍、第2軍と第3・4軍(まとめて単一の部隊)の残りは、ドイツの攻撃からルーマニアを守るよう国王から命を受けていた。ミハイ1世は、当時100万人近い勢力があったルーマニア軍を連合軍側に置くことを申し出た。これに対しヨシフ・スターリンは、すぐに王の地位とルーマニア君主制の復活を認めた。 8月23日夜には、ルーマニア国民と軍に向けてラジオ放送が流された。このなかでミハイ1世は、停戦を発表し、ルーマニアは連合国側につくことを宣言した。また、イギリス、アメリカ、ソ連によって提示されていた休戦協定の受け入れ(調印は9月12日)とドイツに対する宣戦布告も行った。クーデターにより赤軍のルーマニア進出が加速した一方で、ソ連による急激なルーマニア領の占領や、13万人にのぼるルーマニア兵の捕虜が捕らえられる事態は回避できなかった。捕虜はソ連へと送られ、その多くが収容キャンプで死亡した。休戦協定は3週間後の1944年9月12日に、事実上ソ連に指示された内容で署名された。休戦協定では、ルーマニアがソ連に対し、無条件降伏することが宣言され、メディア、通信、郵便、市民行政はソ連を代表とする連合国の支配下に置かれた。ルーマニアの方針転換に関する正式な承認が9月12日(モスクワで調印が行われた日付)まで遅れた理由としては、ソ連とイギリスの交渉が難航したためだともいわれる。 1944年10月のモスクワ会議では、イギリスの首相であったウィンストン・チャーチルは、ソ連の指導者、スターリンと、戦後の東ヨーロッパにおける勢力圏分割について合意した。このなかで、ソ連はルーマニアに対して90%の影響力を認められた。 9月12日に調印された休戦協定の第18項には、「連合国統治委員会を設立し、平和が確保されるまで、連合国権力に代わる連合国(ソ連)最高司令部の総合的な指示や要求のもと、現在の状態維持に関する規制と管理が行われる」と明示されている。また、第18項の付属文書には、「ルーマニア政府とその機関は、休戦協定に起因する連合国統治委員会のすべての指示を履行する」と記されている。さらに、連合国統治委員会はブカレストに置かれることのほか、第14項では、戦争犯罪者を裁くため、2つのルーマニア人民法廷が設立されることも定められた。
※この「王室によるクーデター」の解説は、「第二次世界大戦下のルーマニア」の解説の一部です。
「王室によるクーデター」を含む「第二次世界大戦下のルーマニア」の記事については、「第二次世界大戦下のルーマニア」の概要を参照ください。
- 王室によるクーデターのページへのリンク