王冠の歴史とは? わかりやすく解説

王冠の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 08:33 UTC 版)

聖イシュトヴァーンの王冠」の記事における「王冠の歴史」の解説

ハンガリー科学協会およびハンガリーカトリック監督会が提唱したによれば現存するハンガリーの聖冠コロナ・グラエカcorona graeca)とコロナ・ラティーナcorona latina)の2つパーツ出来ており、東ローマ帝国影響受けたベーラ3世時代現在の形に加工された、とされている(ベーラ3世東ローマ帝国皇室育ち一時皇太子でもあった)。 のちに聖イシュトヴァーンとして列聖されるイシュトヴァーン1世戴冠をもってハンガリー王国成立とされる戴冠日付諸説あり、1000年12月25日とも、1001年1月1日とも言われる)。 ハートヴィク司教1095年 - 1116年)の記したローマ教皇が「祝福とともにイシュトヴァーン1世贈ったのであるという記録をもって聖冠起源とする説がある。カールマーン要求によって編纂されたハートヴィク司教伝記がこの説の根拠となっている。「ハートヴィク伝」によればイシュトヴァーン1世エステルゴムのアストリック大司教ローマ派遣しローマ教皇王冠求めた請求したask for/require)(原注 原典ラテン語はどちらにも解釈できる)。ここでは「ローマ教皇」(Pope)とだけ記載されており、ローマ教皇の名前は書かれていない。だがポーランドミェシュコ1世使節早く到着したため、王冠ポーランド王のために作られることとなったその折教皇夢の中天使あらわれ別の国からの使者現れて、王のための冠を求めるだろうとのお告げ受けた次の日、実際にアストリックが教皇謁見して冠を求めたため、教皇はアストリックに冠を与えた……という記録である。「ハートヴィク伝」は1200年頃にハンガリー祈祷書として使われていたが、そこでは当時教皇としてシルウェステル2世の名が上げられている。シルウェステル2世王冠授けたいきさつキリスト教圏全域広がったため、1613年王冠守護者Peter Revaiが、聖冠シルウェステル2世からイシュトヴァーン1世へと授けられたものだと宣言する至ったしかしながらこの伝承は脚色されているとも考えられている。たとえばミェシュコ1世935年? - 992年5月25日)は、シルウェステル2世在位期間999年 - 1003年)より前に死亡している。さらに、イシュトヴァーン1世列聖された1083年頃に書かれた"Greater Legend"によれば、「彼(イシュトヴァーン1世)の父の死から50年後(……)教皇から祝福の手紙が届き(……)主に認められイシュトヴァーン1世が王に選ばれた。イシュトヴァーン1世塗油受けて誉れ高き王冠戴冠した」とある。この伝承では、聖冠ローマから授けられたという描写が完全に欠落している。さらに、バチカンにはこの聖冠授与したことを示す文書が全く存在しないローマから王冠授与することは、ハンガリー王国に対して影響力象徴するため、ローマにとって明確な利益になるにもかかわらずである。 聖冠起源について有名だ信頼性欠けるこんな話がある。ティートマル・フォン・メルゼブルク(Thietmar von Merseburg, ? - 1018年)による報告で、そこには神聖ローマ皇帝オットー3世イシュトヴァーン1世戴冠同意し教皇祝福与えた、と記述されており、多く歴史家がこのとき聖冠与えられたのだと主張したが、この報告には王冠についての記述は全くなく、聖冠ローマ教皇から与えられたものだとする根拠とはならなかった。 これら2つの説――ベーラ3世時代作られたとする説と、教皇から授与されたとする説の他にも、はるか古代アジア起源求め数多くロマンチックな伝説存在するイシュトヴァーン1世時点での聖冠どの辺りまでかという疑問は、1978年に冠がハンガリー返還され一通り調査可能になるまで棚上げになっていた。 エナメル画に使われている技法複数あることや、彫刻サークレット部(コロナ・グラエカ)でギリシャ語バンド部(コロナ・ラティーナ)でラテン語であることなどを考えると、2つパーツそれぞれ異な時代作られた、ということになる。しかしながら王冠分解した記録はまった残っておらず、記録上はイシュトヴァーン1世戴冠したものと同一のものと見なされていたのである聖冠戴冠式の際にのみ使用され使用しない時は常に2人王冠守護者守られている。王冠守護者以外にこの聖冠触れることができるのは2人だけである。時のnadorispan(俗界最高の地位)が戴冠式の間、聖冠台座起き時の大司教聖職者最高の地位)が王に冠をかぶせる。 聖冠これまでに、盗まれたり、隠されたり、失われたり、国外へ持ち出されたりもした。戴冠宝物は王が空位の間セーケシュフェヘールヴァール保管されていた。その後ヴィシェグラードポジョニブラチスラヴァ)、ブダ転々とした。第二次世界大戦中西ヨーロッパ運ばれ最終的にソ連から逃れるためアメリカ軍引き渡され、フォート・ノックス(英語版)(ケンタッキー州にある陸軍駐屯地)に、同時大量に集まったとともに保管された。 水面下での広範な調査王冠本物であると確かめられた後、アメリカ政府命令王冠ハンガリー返還された。1978年ジミー・カーター大統領の下でのことで、ハンガリー王家の服飾についての学術的調査始まったのはここからである。共産主義凋落の後、1990年王冠紋章への復帰果たした国民議会は、コシュート・ラヨシュ1849年定めた王冠のない紋章よりも、戦前紋章選んだ2000年1月1日聖冠と笏・宝珠・剣はハンガリー国立美術館から国会議事堂へと移動された。

※この「王冠の歴史」の解説は、「聖イシュトヴァーンの王冠」の解説の一部です。
「王冠の歴史」を含む「聖イシュトヴァーンの王冠」の記事については、「聖イシュトヴァーンの王冠」の概要を参照ください。

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