独立プロダクションとの提携
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「マキノ・プロダクション」の記事における「独立プロダクションとの提携」の解説
同年6月、牧野省三は東亜キネマを退社した。当時46歳の牧野が京都の御室天授ヶ丘に設立したのが、この「マキノ・プロダクション」である。牧野が建てた「マキノ・プロダクション御室撮影所」を開所し、「等持院撮影所」は東亜キネマに明け渡した。同年7月、阪東妻三郎はこの機に東亜キネマを退社・独立した 二川文太郎、寿々喜多呂九平、山上伊太郎ら、等持院撮影所の「マキノ派」従業員は、その多くが同社の設立に参加した。マキノ派が去った後、等持院撮影所長には東亜の親会社・八千代生命の宣伝部長である小笹正人が就任した。等持院撮影所長代理の山根もマキノに合流し、東京ではこの動きに呼応して、高松が「タカマツ・アズマプロダクション」を設立、吾嬬撮影所を再稼働、これを「マキノ・プロダクション東京撮影所」とし、「マキノ東京派」を構成した。 直木三十五の聯合芸術協会はマキノを通じて劇界の巨星を続々銀幕に登場させ、映画界に一大波紋を投じた。『ノンキナトウサン・花見の巻』(畑中蓼坡監督)では喜劇の最高峰曽我廼家五九郎一座、『日輪』(衣笠貞之助監督)では市川猿之助と春秋座一棟を梨園から抜いてセンセーショナルな話題を呼んだ。一方で第二新国劇の若手を起用、原健作(原健策)、室町二郎(大河内傳次郎)を『弥陀ヶ原の殺陣』(衣笠貞之助監督)でデビューさせた。 阪東妻三郎は牧野省三のバックアップを受け、阪東妻三郎プロダクション(阪妻プロ)を設立、牧野省三は、阪妻プロと提携関係を結び、牧野総指揮のもと第1作として、マキノ所属の二川文太郎・寿々喜多呂九平コンビによる『雄呂血』を奈良の中川紫朗のスタジオ(中川映画製作所)で製作、しかしながら、阪東妻三郎と東亜キネマの契約が残っており公開ができないまま、続いて阪妻プロ第2作『異人娘と武士』(監督・脚本井上金太郎)を高松の経営する東京の吾嬬撮影所で製作、いずれもマキノ・プロダクションが配給し、『異人娘と武士』を同年9月25日、『雄呂血』を同年11月20日、いずれも高松の経営する浅草公園六区の大東京を皮切りに全国公開を行った。 同年、大阪青年歌舞伎から市川右一が加入、市川右太衛門と名を改め、同年12月25日に公開された『黒髪地獄 前後篇』(監督沼田紅緑)に主演して映画界にデビュー、以降、マキノプロダクションは、右太衛門主演の映画を連打する。阪妻プロ第3作『魔保露志』(監督志波西果)は同年12月31日に公開され、マキノの大正15年正月映画となった。 1926年(大正15年)1月、3年前のマキノ映画製作所ボイコットと同様の独立プロダクション排斥運動をメジャー4社が行なうが、マキノはこれを打破した。旧劇(時代劇)、新劇(現代劇)ともに増強、時代劇には欠かせなかった「立ち回り」を排除した作品も製作、新しい映画づくりに挑戦した。しかしこの直後、阪妻プロが松竹キネマと契約を結び、マキノから離れて、第4作を発表した。 「阪東妻三郎プロダクション」、「タカマツ・アズマプロダクション」、および「中川映画製作所」を参照 同年、脚本家の山上伊太郎が原作を書いた『闇乃森』(監督橋本佐一呂、脚本マキノ省三)、山上オリジナルシナリオによる『女怪』(監督金森万象)を世に問い、後者によって鈴木澄子がスターとなり、満18歳のマキノ正博が富沢進郎との共同名義で初めて監督した『青い眼の人形』で、監督として自立した。 同年初めごろに松竹蒲田撮影所を退社した勝見庸太郎が、マキノの監督に昇進していた実弟の勝見正義の勧めにより勝見庸太郎プロダクション(勝見プロ)を設立、マキノ・プロダクションはこれと提携し、同年11月14日、勝見プロ第1作『恋の丸橋』(監督勝見黙笑)を配給して公開した。 「勝見庸太郎プロダクション」を参照 1927年(昭和2年)1月、牧野省三は超大作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』の製作を開始する。同年5月、名古屋(現在の南区道徳新町・道徳公園内)に「マキノ・プロダクション中部撮影所」を開所、牧野省三の長男で子役出身の映画監督のマキノ正博が、わずか18歳で同撮影所長に就任した。牧野省三は同撮影所に『忠魂義烈 実録忠臣蔵』の「松の廊下」のセットを建て、撮影にとりかかる。
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