滝之湯堰・大河原堰
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「北山村 (長野県)」の記事における「滝之湯堰・大河原堰」の解説
江戸時代に坂本養川が開削し、現在も茅野市域の耕地灌漑に使用されている農業用灌漑水路の滝之湯堰(たきのゆせぎ・1785年開削、北山・湖東・豊平3村16区を灌漑)や大河原堰(おおがわらせぎ・1792年開削、玉川・宮川2村12区を灌漑)の2大堰をはじめとする大小の堰が、村内の滝ノ湯川および渋川などの各川から取水している。戦時中から戦後にかけて、村内の音無川上流域に蓼科大池(現・白樺湖)が、滝ノ湯川上流域に蓼科湖がそれぞれ造営され、堰に流下させる水の水温を上げて水稲の増産を図った。 八ヶ岳山麓の山浦地方では、江戸時代にすでに本流の水量が分水の限界に達し、堰の新設が不可能となる一方、明治以降、管理が高島藩から流域各区に移管され、堰の上流と下流、それに複数の堰の間で、取水割合や堰の修理、経費をめぐる争議「水争い」が多発。茅野市発足後の昭和末期に至るまで、流血や死者をともなう無数の紛争や裁判が続いた。 滝之湯堰では源流の湯川耕地(湯川区)など上流の耕地と下流耕地との間で1888年以降、小競り合いや暴行事件が繰り返し発生したため、1889年には湯川耕地を除く下流15耕地が巡査1人の派遣を上諏訪警察署に請願し、1893年まで巡査が常駐して警備を行った。また1895年には下流の湖東、豊平両村8区が、上流区である北山村各区民の水利妨害による暴力で湖東・豊平村区民が死亡した場合、8区合同で弔慰金200円を支給することなどを定めるなど、激しい紛争が続いた。 こうした対立を解消するため、1890年には流域16区の分水割合を定めた規定を全面的に見直したほか、1893年には滝之湯堰普通水利組合(1951年、滝之湯堰土地改良区に改称)を設立して1897年に各区ごとの組合費納入算定基準を改定。ともに現在に至るまでこの取り決めが存続している。 一方、滝ノ湯川と渋川で取水し、村外を灌漑域とする大河原堰は、延長20kmにおよぶため常に水量不足が問題となり、灌漑域各区間での水争いが多発していたが、源流の北山村内では、両河川で共に大河原堰より下流で取水している滝之湯堰流域各区との間で分水割合を巡る争議がたびたび発生した。 横谷事件 - 1948年は田植え期から雨の少ない日が続き、同年6月には大河原堰、滝之湯堰とも末端ではほとんど水が流れてこない状況となった。村内横谷地籍の渋川にある横谷渓谷の大河原堰揚水地点(乙女滝付近)では6月10日ごろから、渋川の水を大河原堰に取り込もうとする大河原堰関係者(玉川・宮川村)と、それを阻止しようとする滝之湯堰関係者(北山・湖東・豊平村)が集結し、約1週間にわたって衝突した。6月13日夜には出動した警官隊の目前で投石による死者1名を出したが衝突は続き、6月17日夜、豊平村役場で滝之湯堰側の北山・湖東・豊平の3村関係者が対策会議を開いていたところ、大河原堰側の玉川・宮川両村民が庁舎内に乱入して大論争が始まった。しかしこのとき突如大雨が降り始めたため、水不足が解消したことを悟った両堰関係者は解散。騒動は自然収束した。
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