清水エスパルス時代
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2005年、清水エスパルスの特別指定選手 としてナビスコカップに1試合出場(2005年6月11日の予選リーグ第6節名古屋グランパスエイト戦に先発出場)。 目覚しい活躍をみせた大学時には、高校時代とは打って変わって多くのJ1クラブが獲得候補選手リストに掲げ争奪戦を繰り広げたが、その中から藤本は清水エスパルスを選択。2006年に正式加入した。清水を選んだのは、特別指定選手として練習に参加した際、軽いプレーをした藤本に対して長谷川健太監督が「やる気がないなら帰れ」と叱責、このことからお客さん扱いではなく1人の戦力として見てくれていることに喜びを感じ清水でプレーしたいという気持ちがわいたためと語っている。 プロ1年目でその前年に引退したミスター・エスパルスこと澤登正朗の後継者として指名され、ルーキーながら澤登のトレードマークでもあった背番号10を受け継いだ。シーズンの序盤はコンディション作りや怪我に悩まされ安定した活躍ができなかったが、シーズン終盤ポジションを右サイドハーフに移し視野を広げたことでプレーの幅が広がり爆発的な活躍をした。第31節、第32節では2試合でプロ入りして初のハットトリックを含む5得点1アシストを記録するなど、28試合出場8得点4アシストで1シーズン目を終えた。これらの活躍が評価され2006年シーズンのJリーグ新人王(奇しくも初代新人王は澤登)、第39回内閣総理大臣杯日本プロスポーツ大賞新人賞を受賞。 2007年のJリーグオールスターサッカーに東西両軍を合わせ最多得票を集めて選出され出場した。 2008年7月22日大宮アルディージャ戦で相手タックルにより左足首を負傷。精密検査の結果、左足腓骨骨折および左足首内側靭帯損傷で全治3ヶ月の重症であることが判明、2008年シーズン残り試合の出場は絶望的となった。翌2009年シーズンの第2節で復帰。その影響もあって2009年は1得点にとどまった。 2010年は小野伸二の加入に伴い、4-3-3の右ウイングに転向。自己最多の13得点を挙げ、初のJリーグベストイレブンに選出。
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清水エスパルス時代
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2008年、Jリーグ・清水エスパルスへ入団。数クラブからのオファーがあった中で清水を選んだ理由は、最初に声をかけてくれたことと、在学中練習に参加させてもらったところチーム内の雰囲気がとてもよかったことだと語っている。また、高校の2年先輩である藤本淳吾がいたのも大きかったという。同年3月、Jリーグ2008年シーズン開幕を先発出場で飾る。同年8月、U-23日本代表メンバーとして北京オリンピックへ出場。清水ではアンカーとして定着した。 2010年、清水での活躍が認められ、アルベルト・ザッケローニ監督就任後に日本代表に選出され、2011年のAFCアジアカップ2011カタール大会のグループリーグ第三戦の対サウジアラビア戦に途中出場し、代表初出場を果たした。
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清水エスパルス時代(第2次)
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「本田拓也」の記事における「清水エスパルス時代(第2次)」の解説
2013年7月24日、2年半ぶりに清水へ完全移籍での復帰を発表。 2014年10月、チームが残留争いに置かれている中で、監督の大榎克己や主将の杉山浩太の推薦もあり、副主将に就任。
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