海防に強い問題意識を抱く
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 04:20 UTC 版)
「江川英龍」の記事における「海防に強い問題意識を抱く」の解説
江戸時代で最も文化が爛熟したといわれる文化年間以降、日本近海に外国船がしばしば現れ、ときには薪水を求める事態も起こっていた。幕府は異国船打払令を制定、基本的に日本近海から駆逐する方針を採っていたが天保8年(1837年)、モリソン号事件が発生。幕府は方針に従って打ち払った。 英龍自身は早くから蘭学者幡崎鼎の教えを受けており、天保8年正月には海防に関する建議を行っている。天保9年(1838年)12月には目付の鳥居耀蔵を正使、英龍を副使として、江戸湾防備強化のための備場巡検が行われることとなった。巡検自体は元々相模一帯が範囲だったが、鳥居が内密に巡検範囲を安房~伊豆まで広げる、英龍の測量士解雇を求めるなど鳥居と英龍の間に争いがおこった。また、測量終了後渡辺崋山に江戸湾防備に関する復命書の草案を依頼するが、後述の蛮社の獄に影響され崋山の案文が採用されることはなく、英龍の報告は穏健なものにならざるを得なかった。 こうした時期に川路聖謨・羽倉簡堂の紹介で英龍は渡辺崋山・高野長英ら尚歯会の人物を知る事になる。崋山らはモリソン号の船名から当該船は英国要人が乗っている船であるとの事実誤認を犯していたが、それだけに危機意識は一層高いものとなり、海防問題を改革する必要性を主張した。ところが当時の状況を見れば肝心の沿岸備砲は旧式ばかりで、砲術の技術も多くの藩では古来から伝わる和流砲術が古色蒼然として残るばかりであった。尚歯会は洋学知識の積極的な導入を図り、英龍は彼らの中にあって積極的に知識の吸収を行った。そうした中で英龍と同様に自藩(三河国田原藩)に海防問題を抱える崋山は長崎で洋式砲術を学んだという高島秋帆の存在を知り、彼の知識を海防問題に生かす道を模索した。 しかし、幕府内の蘭学を嫌う目付・鳥居耀蔵ら保守勢力がこの動きを不服とした。特に耀蔵からすれば過去に英龍と江戸湾岸の測量手法を巡って争った際に、崋山の人脈と知識を借りた英龍に敗れ、老中・水野忠邦に叱責された事があり、職務上の同僚で目の上のたんこぶである英龍、そして彼のブレーンとなっていた崋山らが気に入らなかった。天保10年(1839年)、ついに耀蔵は冤罪をでっち上げ、崋山・長英らを逮捕し、尚歯会を事実上の壊滅に追いやった(蛮社の獄)。しかし英龍は彼を高く評価する忠邦に庇われ、罪に落とされなかったというのが通説である。 これに対して、英龍と長英は面識がなく、また崋山と簡堂の接点も不明で、崋山と秋帆も面識はなかったとの指摘がある。崋山・長英らはいずれも内心鎖国の撤廃を望んでいたが、幕府の鎖国政策を批判する危険性を考えて崋山は海防論者を装っていた。田原藩の海防も助郷返上運動のための理由づけとして利用されただけだった。海防論者である英龍は崋山を海防論者と思って接触し、逆に崋山はそれを利用して英龍に海防主義の誤りを啓蒙しようとしたもので、やがて英龍も崋山が期待したような海防論者ではないことを悟ったと思われる。また、江戸湾巡視の際に耀蔵と英龍の間に対立があったのは確かだが、もともと耀蔵と英龍は以前から昵懇の間柄であり、両者の親交は江戸湾巡視中や蛮社の獄の後も、耀蔵が失脚する弘化元年(1844年)まで続いている。蛮社の獄に際しても耀蔵は英龍を標的とはしておらず、英龍は蛮社の獄とは無関係だとしている。なお、尚歯会の会員で処罰を受けたのは崋山と長英のみで、尚歯会自体は弾圧を受けていない。
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