水俣病関連とは? わかりやすく解説

水俣病関連

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:40 UTC 版)

チッソ」の記事における「水俣病関連」の解説

少なくとも1953年頃より、水俣湾周辺漁村地区などでなどの不審死多数発生し同時に特異な神経症状呈して死亡する住民みられるようになった1956年5月1日新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患多発していることに気付き、「原因不明中枢神経疾患」として5例の患者水俣保健所報告した。これが後に水俣病最初公式認定となる。当時の社長白石宗城。戦後復興期アセトアルデヒド生産激増1951年社長就任以来など動物狂死漁獲激減水俣病発生患者の公式確認となったが、その後量産体制継続1958年社長吉岡喜一交替後年1951年チッソでのアセトアルデヒド生産方法変更が、水俣病発生の要因との研究結果公表1959年7月22日熊本大学医学部水俣病研究班が水俣病原因物質有機水銀であると公表した1970年11月28日株主総会大阪厚生年金会館(現・オリックス劇場)で開催会場正面入口近く配置され特別防衛保障警備員により、株式取得して総会出席しようとする水俣病患者家族支援者(1株主)の入場妨害した会場入場できた1株主発言総会屋野次妨害した総会は5分で閉会したが、続く株主懇談会では一株株主らの抗議の中、江頭社長引きずりだされステージの床に正座させられわび状」を読まされる場面もあった。総会前の11月13日、「一株運動」について、当時チッソ専務は「株主総会出席する趣旨反体制運動とか政治的なことだったら違った方法をとらざるを得ない」「一株運動封じるために総会屋を雇うようなことはしない」と発言していた。 1976年5月4日熊本地方検察庁が、社長吉岡喜一と元工場長西田栄一を7人の被害者当時6人死亡1人生存)に対す業務上過失致死傷罪熊本地方裁判所起訴した事件2人1958年から1960年までに工業廃水水俣川河口海域排出し、7人を水俣病罹患させたこととされた。裁判での最大争点公訴時効であり、胎児対す傷害含め公訴時効の起算点について争点となった1979年3月22日熊本地裁は、2人被害者対す業務上過失致死傷罪認めた上で5人の被害者対す業務上過失致死傷罪については公訴時効成立するとして免訴とし、2人被告禁固2年執行猶予3年有罪判決言い渡した1988年最高裁観念的競合における公訴時効期間の算定について本件では全部を一体として観察すべきものと解するのが相当として、7人の被害者について業務上過失致死傷罪認めた上で有罪判決確定した1972年1月7日水俣病取材していた写真家ユージン・スミス千葉県市原市五井にある五井工場訪問した際、企業忠誠を誓う多数派労組暴行スミス脊椎折られ片目失明重傷負った

※この「水俣病関連」の解説は、「チッソ」の解説の一部です。
「水俣病関連」を含む「チッソ」の記事については、「チッソ」の概要を参照ください。

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