水俣病関連
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少なくとも1953年頃より、水俣湾周辺の漁村地区などで猫などの不審死が多数発生し、同時に特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになった。 1956年5月1日、新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患が多発していることに気付き、「原因不明の中枢神経疾患」として5例の患者を水俣保健所に報告した。これが後に水俣病の最初の公式認定となる。当時の社長は白石宗城。戦後復興期でアセトアルデヒド生産が激増。1951年社長就任以来、猫など動物の狂死、漁獲の激減、水俣病の発生、患者の公式確認となったが、その後も量産体制継続。1958年、社長は吉岡喜一に交替。 後年、1951年のチッソでのアセトアルデヒド生産方法の変更が、水俣病発生の要因との研究結果が公表。 1959年7月22日、熊本大学医学部水俣病研究班が水俣病の原因物質は有機水銀であると公表した。 1970年11月28日、株主総会を大阪厚生年金会館(現・オリックス劇場)で開催。会場正面入口近くに配置された特別防衛保障の警備員により、株式を取得して総会に出席しようとする水俣病患者・家族・支援者(1株株主)の入場を妨害した。会場に入場できた1株株主の発言も総会屋の野次で妨害した。総会は5分で閉会したが、続く株主懇談会では一株株主らの抗議の中、江頭社長が引きずりだされステージの床に正座させられ「わび状」を読まされる場面もあった。総会前の11月13日、「一株運動」について、当時のチッソ専務は「株主総会に出席する趣旨が反体制運動とか政治的なことだったら違った方法をとらざるを得ない」「一株運動を封じるために総会屋を雇うようなことはしない」と発言していた。 1976年5月4日、熊本地方検察庁が、社長の吉岡喜一と元工場長の西田栄一を7人の被害者(当時6人死亡・1人生存)に対する業務上過失致死傷罪で熊本地方裁判所に起訴した。事件は2人が1958年から1960年までに工業廃水を水俣川河口海域に排出し、7人を水俣病に罹患させたこととされた。裁判での最大の争点は公訴時効であり、胎児に対する傷害を含め公訴時効の起算点について争点となった。1979年3月22日、熊本地裁は、2人の被害者に対する業務上過失致死傷罪を認めた上で5人の被害者に対する業務上過失致死傷罪については公訴時効が成立するとして免訴とし、2人の被告に禁固2年執行猶予3年の有罪判決を言い渡した。1988年に最高裁は観念的競合における公訴時効期間の算定について本件では全部を一体として観察すべきものと解するのが相当として、7人の被害者について業務上過失致死傷罪を認めた上で有罪判決が確定した。 1972年1月7日、水俣病を取材していた写真家のユージン・スミスが千葉県市原市五井にある五井工場を訪問した際、企業に忠誠を誓う多数派労組が暴行。スミスは脊椎を折られ、片目失明の重傷を負った。
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