歴代教主
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初代教主 坂田鐵安(1872年(明治5年)、惟神教会禊社設立し社長。開祖) 二代教主 坂田安治(1894年(明治27年)、初代管長。坂田鐵安の子) 三代教主 乾久三郎(1900年(明治33年)、二代管長) 四代教主 柴真住(1916年(大正5年)、三代管長) 五代教主 坂田實(1924年(大正13年)、四代管長。坂田安治の子) 六代教主 坂田安儀(1957年(昭和32年)、五代管長。坂田實の子) (七代教主) 坂田安弘(1988年(昭和63年)、道統継承宣言。坂田安儀の子)
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歴代教主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 22:35 UTC 版)
初代教祖 伊藤六郎兵衛(いとうろくろうべえ) 武蔵国橘樹郡登戸村字富士塚(現神奈川県川崎市多摩区登戸)、農業清宮源六の次男として1829年8月14日(文政12年7月15日)に生まれた。幼名「米吉(よねきち)」。14歳から24歳まで隣村宿河原の叔母の家で百姓奉公を勤めた後、伊藤家の婿養子となり長女サノと結婚。名を「六蔵(ろくぞう)」と改める。後に家督相続して家名の「六郎兵衛(ろくろうべえ)」を襲名。1873年(明治6年)、丸山講を創始し、のちの丸山教に至る教派の教祖となる。1894年(明治27年)3月30日、66歳で死去。 二世教主 伊藤国義(いとうくによし) 教祖の妻、サノの妹キノと当麻又左衛門の三男として、1859年3月6日(安政6年2月2日)に生まれた。1861年(文久元年)、2歳の時に教祖とサノ夫婦の養子となる。1894年(明治27年)3月30日、教祖の死去後、35歳で二世教主として法統を継ぐ。1908年(明治41年)2月21日、49歳で死去。 三世教主 伊藤六郎兵衛(伊藤平質:いとうへいしち) 丸山教二世教主とイノの次男として、1883年(明治16年)11月17日に橘樹郡登戸村(川崎市)で生まれた。日本大学卒業。1908年(明治41年)2月21日、父・国義(二世教主)の死去後、25歳で法統を受け継ぎ三世教主に就任。葦天と号して俳画や郷土史研究を行い、飯田九一や佐藤惣之助と親交を結んだ。1972年に第1回川崎市文化賞を授賞。1974年(昭和49年)6月17日、90歳で死去。 四世教主 伊藤光海(いとうてるみ) 丸山教三世教主の長男で副教主の伊藤等と和子の長男として、1949年(昭和24年)11月21日に生まれた。父の伊藤等が1962年(昭和37年)11月18日に死去後、13歳で副教主を襲名。以後、祖父である三世を助けて教団の諸行事の中核を担う。1974年(昭和49年6月17日)、三世の死去後、24歳で法統を継ぎ、四世教主に就任。
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歴代教主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 01:19 UTC 版)
初代 黒住宗忠 二代 黒住宗信 三代 黒住宗篤 四代 黒住宗子(むねやす) 五代 黒住宗和 六代 黒住宗晴(1973年就任) 七代 黒住宗道(2017年9月18日就任) - 1963年生まれ、成蹊大学文学部卒、ロンドン大学所属東洋アフリカ研究学院留学後、1988年、青年連盟長として教団に入り、2000年から副教主を務めた。
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