楽歴
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「マウロ・アウグスティーニ」の記事における「楽歴」の解説
1978年5月サラゴサ(スペイン)にてジャコモ•プッチーニ 作曲 オペラ《トスカ》のスカルピア役でデビュー。その後すぐにピストイアにて《トスカ》、コルテ・マラテスティアーナ・ディ・ファーノ (ペーザロ)とロヴィーゴにてルーナ伯爵《トロヴァトーレ》、トレヴィーゾのテアトロ・コムナーレ、パドヴァとロヴィーゴにてトニオ《道化師》を次々と歌い活躍をはじめる。現在に至るまでヴェルディ・バリトン、ドラマティック・バリトンとして常に主要な役を各国の劇場で歌い、国際的に成功を収めている。
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楽歴
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鄭は、2歳を過ぎた頃から多くの歌を正確な音程とリズムで歌い、ラジオの生放送に出演して7曲を1ヶ所も間違えずに歌った。4歳の時にピアノを習い始めた。ピアノはヤマハ製だった。鄭はピアノにはあまり興味を示さず、姉のミョンファ(1944年生まれ、鄭より4歳上)が小学生になってヴァイオリンを習い始めた時に、鄭も一緒にヴァイオリンを習い始めた。 鄭は、ヴァイオリンのレッスンを2回受けただけで、小学校の入学式で子供達が歌う歌を弾けるようになり、ヴァイオリンを始めて8ヶ月目でコンクールに出て、3年間習い続けた子供を抑えて入賞した。小学校5年生で梨花女子高校のコンクールでメンデルスゾーンの曲を弾いて特賞を受け、「少年少女の夕べ」で、ソウル市交響楽団と協演した。 鄭は、1960年に、文化使節団の一員として日本を訪れ、伝手を辿って、日本の著名な音楽家や批評家の前で演奏する機会を得た。音楽評論家の牛山充は 「驚いた。朝鮮戦争でついこのあいだまで廃墟だった韓国と、こんなに美しい音楽をとても結びつけて考えることができない。技術的に優れた子供なら日本にもたくさんいるけど、こんなに感性の優れた音楽は初めてだ」 と評した。牛山の評は、日本の音楽雑誌「音楽の友」に3ページにわたって掲載された。 母と、既にアメリカ留学を果たしていた兄2人の尽力により、チョンは12歳でジュリアード音楽院へ留学し、イヴァン・ガラミアンに師事した。 1967年レーヴェントリット国際コンクールへ出場し、同窓のピンカス・ズーカーマンと同時優勝となる。 レーヴェントリット国際コンクールで優勝したチョンにはアメリカの各オーケストラから出演依頼が殺到した。しかし、師のガラミアンの 「10代のうちにあまり有頂天になって舞台に出るのはよくない」 というアドバイスに従って、鄭は演奏活動をセーブして、スイスに住んでいたヨーゼフ・シゲティに師事した。 シゲティに師事していた鄭は、ロンドン交響楽団の常任指揮者をしていたアンドレ・プレヴィンから、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールで1970年に開かれる慈善ガラ・コンサートへの出演の誘いを受けた。鄭は、この演奏会で、チャイコフスキーの協奏曲を弾き、慈善演奏会の評は載せないことが多いイギリスの新聞から 「ジネット・ヌヴー以来、こんな素晴らしいヴァイオリニストを聴いたことがない」 「満員のお客のしつこい拍手喝采以上の価値が本当にあったのだ。果たしてハイフェッツがこれよりも巧く奏いたかどうか、疑問に思う」 といった賛辞を受け、英デッカ・レコードと録音契約を結び、年に100回以上の演奏会を行うトップ・ヴァイオリニストとなった。 鄭は、英デッカに多くの録音を行った後に、1988年に英EMIに移籍して、2011年現在に至る。 私生活では、マルタ・アルゲリッチとシャルル・デュトワが婚姻関係にあった時期に、デュトワと不倫関係にあった。1984年にイギリス人の実業家と結婚。2人の息子の出産を機に一時的に活動を休止する。2005年より指のケガにより長期療養したのち、2010年に復帰した。2011年湖巌賞芸術部門受賞。
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