楽水紙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 03:43 UTC 版)
皺紋を特徴とする泰平紙に対して、海藻を漉き込んで独特の紋様をつけた、襖障子一枚の大きさのいわゆる三六判の紙を楽水紙という。泰平紙を創製したのは、玉川堂田村家二代目の文平であったが、楽水紙もやはり田村家の創製であった。玉川堂五代目田村綱造の『楽水紙製造起源及び沿革』によると、「和製唐紙の原料及び労力の多きに比し、支邦製唐紙の安価なると、西洋紙の使途ますます多きに圧され、この製唐紙業の永く継続し得べからざるより、ここに明治初年大いに意匠工夫を凝らしし結果、この楽水紙といふ紙を製することを案出し、今は玉川も名のみにて、鳥が鳴く東の京の北の端なる水鳥の巣鴨の村に一つの製紙場を構え、日々この紙を漉くことをもて専業とするに至れり。もっとも此の紙は全く余が考案せしものにはあらず、その源は先代(田村佐吉)に萌し、余がこれを大成せしものなれば、先代号を楽水といへるより、これをそのまま取りて楽水紙と名ずける。」とある。 玉川堂五代目田村綱造が漉いた楽水紙は、縦六尺二寸、横三尺二寸の大判であった。漉桁の枠に紐をつけ滑車で操作しやすくし、簀には紗を敷き、粘剤のノリウツギを混和して、流し込みから留め漉き風の流し漉きに改良している。さらに染色し、紋様を木版摺りすることも加え、ふすま紙として高い評価を得て需要が急増した。三椏を主原料とした楽水紙にたいして、大阪では再生紙を原料とする大衆向けの楽水紙が漉かれるようになり、新楽水紙と称された。やがて、新楽水紙が東京の本楽水紙を圧迫する情勢となった。やがて東京でも大正二年には十軒を数える業者が生まれている。 大正12年(1923年)の関東大震災で、復興需要の急増と、木版摺りの版木が焼失したのに伴い、新楽水紙が主流となった。昭和12年(1937年)には、東京楽水紙工業組合が組織され、昭和15年(1940年)には組合員35名、年産450万枚に達していた。太平洋戦争後には、越前鳥の子や輪転機による多色刷りのふすま紙に押されて衰滅した。
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