桂宮時代
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1988年(昭和63年)1月1日に、昭和天皇から「桂宮」の称号を与えられ、独立の生計を営むようになった。宮号はお印のカツラ(桂)に因んだもので、かつての四親王家の一つである旧桂宮家とは無関係とされているが、区別をする必要がある時は「新桂宮家」と表記される場合がある。系統としては高松宮家から引き継いだ物が多いため、祭祀などについては有栖川宮家に系統が近い。同年2月20日に、宮家創設の祝宴を開いた。現時点では直宮家以外の宮家創設としては最後である。 その3か月後の同年5月26日、約一週間前から風邪で寝込んでいたが、この日は午後になっても起床しないため、宮家職員が様子を見に行ったところ、ベッドの脇で意識不明の状態で倒れている宜仁親王を発見した。 すぐに都立広尾病院に入院して、緊急手術を受けた。病名は未公表ながら、急性硬膜下血腫などと報道された。また、従来より肥大型閉塞性心筋症の持病があったことも報じられた。 急性硬膜下血腫は、厳密には病気ではなく症状であり、頭部の強打により脳挫傷が起き、脳から出血して硬膜と脳の間に血液がたまり脳を圧迫するもので、死亡率はきわめて高い。宜仁親王の右顔面、右肩、腰に打撲があったという状況からも、転倒・転落などの事故があったことになる。 同年8月に意識を回復し、同年11月に退院した。翌1989年(昭和64年/平成元年)初めにあった昭和天皇の崩御と第125代天皇明仁の即位に伴う一連の行事は欠席したものの、リハビリテーションの甲斐もあり、1991年(平成3年)11月には公務に復帰した。以降、右目の視力の喪失、記憶障害、右半身の麻痺といった後遺症を抱えつつも、車椅子を使用しながら公務を行なった。 2008年(平成20年)9月28日、予定されていた第63回国民体育大会の観覧出席を急遽取りやめ、敗血症の疑いで東京大学医学部附属病院に入院した。同年12月2日には、集中治療室から一般病棟に戻ることができ、リハビリも本格的に始めた。翌年の2009年(平成21年)3月29日に退院して、宮邸で療養につとめた。 2011年(平成23年)冬、唾液などが気管に入って発症する誤嚥性肺炎が頻発したため、喉頭を塞ぐ声門閉鎖手術を東京大学医学部附属病院で受け、同年12月30日に退院した。このときの手術により発声能力を失った。 2014年(平成26年)1月、高熱のため東京大学医学部附属病院に1か月入院。以後は、発熱などで入退院を繰り返した。同年6月8日午前9時すぎ、東京大学医学部附属病院に救急搬送されたが、すでに心肺停止の状況だった。同日午前10時55分、急性心不全により薨去された。66歳。これで、三笠宮崇仁親王・百合子妃夫妻の間に生まれた3人の男子全員が死去し、男系断絶が確定した。薨去にあたっては内閣総理大臣謹話が発表され、一般からの弔問記帳を受け付けた(同10日から16日までの7日間で3268人が記帳)。同年6月17日には、父の三笠宮崇仁親王が喪主(喪主代理は姪の彬子女王)、生前親交のあった一條實昭が司祭長を務め、司祭副長にはNHK勤務時の同僚の長谷昴彦が就いた。豊島岡墓地で喪儀(斂葬の儀)が執り行われ、560人が参列した。墓所は同じく豊島岡墓地に、兄の寬仁親王、弟の高円宮憲仁親王の墓所と並ぶように建立された。
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