桂宮時代とは? わかりやすく解説

桂宮時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 17:40 UTC 版)

桂宮宜仁親王」の記事における「桂宮時代」の解説

1988年昭和63年1月1日に、昭和天皇から「桂宮」の称号与えられ独立生計を営むようになった。宮号お印カツラ)に因んだもので、かつての四親王家一つである旧桂宮家とは無関係とされているが、区別をする必要がある時は「新桂宮家」と表記される場合がある。系統としては高松宮家から引き継いだ物が多いため、祭祀などについては有栖川宮家系統が近い。同年2月20日に、宮家創設祝宴開いた現時点では直宮家以外の宮家創設としては最後である。 その3か月後の同年5月26日、約一週間から風邪で寝込んでいたが、この日は午後になっても起床しないため、宮家職員様子を見に行ったところ、ベッドの脇で意識不明の状態で倒れている宜仁親王発見した。 すぐに都立広尾病院入院して緊急手術受けた病名未公表ながら、急性硬膜下血腫などと報道された。また、従来より肥大閉塞心筋症持病があったことも報じられた。 急性硬膜下血腫は、厳密に病気ではなく症状であり、頭部強打により脳挫傷起き、脳から出血して硬膜と脳の間に血液がたまり脳を圧迫するもので、死亡率きわめて高い。宜仁親王の右顔面右肩、腰に打撲があったという状況からも、転倒転落などの事故があったことになる。 同年8月意識回復し同年11月退院した。翌1989年昭和64年/平成元年初めにあった昭和天皇の崩御第125代天皇明仁即位に伴う一連の行事欠席したものの、リハビリテーション甲斐もあり、1991年平成3年11月には公務復帰した以降、右目の視力喪失記憶障害、右半身麻痺といった後遺症抱えつつも、車椅子使用しながら公務行なった2008年平成20年9月28日予定されていた第63回国民体育大会観覧出席急遽取りやめ、敗血症疑い東京大学医学部附属病院入院した同年12月2日には、集中治療室から一般病棟に戻ることができ、リハビリも本格的に始めた翌年2009年平成21年3月29日退院して宮邸療養つとめた2011年平成23年)冬、唾液などが気管入って発症する誤嚥性肺炎頻発したため、喉頭を塞ぐ声門閉鎖手術東京大学医学部附属病院で受け、同年12月30日退院した。このときの手術により発声能力失った2014年平成26年1月高熱のため東京大学医学部附属病院1か月入院以後は、発熱などで入退院を繰り返した同年6月8日午前9時すぎ、東京大学医学部附属病院救急搬送されたが、すでに心肺停止状況だった。同日午前10時55分、急性心不全により薨去された。66歳。これで、三笠宮崇仁親王百合子夫妻の間に生まれた3人の男子全員死去し男系断絶確定した薨去にあたって内閣総理大臣謹話発表され一般からの弔問記帳受け付けた(同10日から16日までの7日間で3268人が記帳)。同年6月17日には、父の三笠宮崇仁親王喪主喪主代理は姪の彬子女王)、生前親交のあった一條實昭司祭長を務め司祭副長にはNHK勤務時の同僚長谷昴彦が就いた豊島岡墓地喪儀斂葬の儀)が執り行われ560人が参列した墓所同じく豊島岡墓地に、兄の寬仁親王、弟の高円宮憲仁親王墓所と並ぶように建立された。

※この「桂宮時代」の解説は、「桂宮宜仁親王」の解説の一部です。
「桂宮時代」を含む「桂宮宜仁親王」の記事については、「桂宮宜仁親王」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「桂宮時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

桂宮時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



桂宮時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの桂宮宜仁親王 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS