柏時代から死去まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 11:44 UTC 版)
1925年4月、千葉県東葛飾郡千代田村(現・柏市)の東葛飾中学校(現・千葉県立東葛飾高等学校)の英語教員に転じる。千代田村柏に移転する。3月15日付で御影師範学校を退任後、名目上は3月31日付で千葉県女子師範学校訓導兼東葛飾中学校嘱託に任命され、正式に東葛飾中学校教員になったのは翌年2月15日であった。東葛飾中学校は開校から3年目(校舎の完成から2年目)だった。この転任は罹患した実家の祖父への気遣いからであるとされ、この際にも内藤卯三郎の支援を受けた。転居先は勤務先の学校に近い教職員住宅で、万葉集を好んだ重吉は、真間手児奈などに登場する葛飾を喜んだという。転任に伴って重吉の俸給は御影時代より10円加算された 同年夏8月、書籍の処女詩集となる『秋の瞳』が刊行される(富士印刷所発行、新潮社発売)。この刊行には加藤武雄が助力し、巻頭文も執筆している。新潮社には加藤が勤めていたことがあった。『秋の瞳』は、『詩神』『日本詩人』といった詩壇雑誌から好意的な評価を受け、新聞雑誌から寄稿依頼も寄せられた。7月17日には読売新聞に4編の詩が掲載され、初めて原稿料を得る。複数の同人勧誘を受ける中で、佐藤惣之助が主催する『詩之家』に参加した。同年10月の『詩之家』には「どなたか遊びに来てくだすったらどんなにうれしいだろう」と道案内も含めた来訪を呼びかける文章を掲載し、草野心平は重吉の自宅を訪れた詩人の一人だった。心平からは、詩誌『銅鑼』の同人になるよう勧誘の手紙をもらっていたが、『詩之家』の同人だからと言って、重吉は同人としての参加は辞退した。以後、『日本詩人』、『生活者』、『生誕』、『文章倶楽部』、『若草』、『銅鑼』などに作品を発表した。 1926年(大正15年)は年初より体調を崩し、2月には病臥。当初は「風邪」という診断であったが回復が思わしくなく、3月に発熱して、内藤卯三郎の勧めで東京九段の東洋内科医院を受診し、結核の第二期という診断を受ける。療養生活に入るや、詩作はとだえ、病床ノートが作られ始める。5月、重吉は休職して、東洋内科医院の分院で茅ヶ崎にあった南湖院で療養生活に入った。東葛飾中学の教え子による後年の証言では、最後の授業では詩集の講義をおこない、終わりに「キリストの再来を信ず」という言葉を残して教室を後にしたという。とみは柏から看病に通ったが、重吉からの要望を受けて同年7月に茅ヶ崎町の十間坂の借家に一家で転居し、重吉も自宅療養(南湖院の副院長が往診)となる。同じ月にイギリス留学を控えた内藤卯三郎が見舞いに訪れ、重吉はキーツの書物を購入するよう依頼した。病状は小康状態だったが、10月に再度発熱すると、耳下腺炎、歯痛、腹痛などを併発して苦しんだ。10月2日、病床に富永徳麿が見舞いに訪れ、再会を果たした。冬に入り容態が悪化する中、柏時代の作品を中心とした第2詩集『貧しき信徒』の編纂に没頭した。1927年(昭和2年)10月、危篤が告げられ、高熱の中で十字を切る。10月26日、茅ヶ崎の自宅において29歳で死去した。本葬は堺村の実家で執り行われた。郷里の生家近くにある墓碑には十字架が刻まれている一方で、仏教式の戒名(浄明院自得貫道居士)も刻されている。
※この「柏時代から死去まで」の解説は、「八木重吉」の解説の一部です。
「柏時代から死去まで」を含む「八木重吉」の記事については、「八木重吉」の概要を参照ください。
- 柏時代から死去までのページへのリンク