東条琴台とは? わかりやすく解説

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東条琴台

読み方とうじょう きんだい

幕末・明治儒者考証学者。江戸生。名は信耕、字は子義蔵別号呑海がある。伊東田・亀斎等に学ぶ。越後高田藩修道館教授をつとめ、維新後亀戸神社祠官となり、さらに教部省出仕した明治11年(1878)歿、83才。

東条琴台

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/18 03:34 UTC 版)

明治元年(1868年)鈴木鵞湖筆「東条琴台肖像」実践女子大学図書館蔵

東条琴台(とうじょう きんだい、寛政7年6月7日1795年7月22日〉 - 明治11年〈1878年9月26日)は江戸時代後期から明治にかけての儒学者。幼名は義蔵または幸蔵。名は信耕。字は子臧。通称は文左衛門、後に源右衛門。別号に無得斎、呑海堂、掃葉山房。

江戸の医家に生まれ、大田錦城亀田鵬斎等に学び、越後高田藩に仕えた。嘉永年間、海防論を説いた『伊豆七島図考』で筆禍に遭い、江戸を離れて高田城下で修道館教授を務めた。明治には東京に戻り、新政府下で神官を歴任した。

先哲叢談後編』『続編』の編者として知られる。兄に花笠文京、孫に下田歌子がいる。

生涯

江戸時代

寛政7年6月7日(1795年)、江戸宇田川町[1]に生まれた。父に四書五経を習い、文化6年(1809年)頃から伊東藍田、倉成竜渚、尾藤二洲山本北山大田錦城亀田鵬斎等に師事し、多彩な学派に接触した[2]

文化14年(1817年)、数え23歳のとき、大田錦城の弟子であった美濃岩村藩士平尾信従(他山)に跡継ぎがなかったため、錦城の周旋により婿養子に入り、一子鍒蔵をもうけた[3]。しかし江戸幕府では林述斎が異学の禁を唱え、述斎の出身である岩村藩でも異学への風当たりが強くなったため、平尾家は折衷学に傾いていた琴台に跡を継がせることを憂慮し、文政2年(1819年)離縁に至った[4]

文政7年(1824年)、遂に折衷学を棄て、昌平坂学問所で林家に朱子学を学んだ[5]。文政10年(1827年)、越後高田藩榊原政令に登用され、また3年間幕府賄方小吏も勤めた[5]

天保3年(1832年)春、柳橋の酒楼で戯作者浮世絵師等500人余りを会した盛大な書画会を催したところ、華美に過ぎるとして林家から破門されたが、琴台は開き直って湯島の酒楼で除門会を催した[6]

高田時代

嘉永3年(1850年)、海防論を説いた『伊豆七島図考』が幕府に咎められ、高田藩邸に幽閉となった。嘉永4年5月(1851年)解除され、夏榊原政愛の命で越後国高田城下江戸長屋[7]に移り[8]、 嘉永6年(1853年)西之辻通外堀際幸橋長屋[9]に移った[8]

文久初年には信濃国松代越中国高岡へ旅に出た[10]

慶応2年11月(1866年)、高田岡島町に藩校修道館新潟県立高田高等学校)が開館すると、琴台はその教官筆頭に就任した[11]。慶応3年7月16日(1867年)、藩命により長岡三条を経て会津藩の情勢を偵察した[12]

東京時代

明治元年8月(1868年)、鎮将府より召命が下り、9月8日東京へ上った[13]大学で書を講じ、間もなく高田に戻った[14]

明治2年11月18日(1869年)、一家で東京に上り、明治3年9月(1870年)徴命により宣教使に出仕、閏10月20日宣教少博士に任命された[15]。宣教使内では攘夷論国学者等と対立した[16]。明治4年3月(1871年)、前年刊行した『聖世紹胤録』が「不都合之廉不少」として発行差止となる[17]

明治5年3月(1872年)、神祇省廃止により宣教使は廃官となり、8月30日亀戸天神社祠官、次いで9月24日権中講義に任ぜられた[18]

新暦明治7年(1874年)5月5日に教部省十等出仕、考証掛となったが、眼病に罹り、明治8年(1875年)7月辞職、間もなく失明した[19]

明治11年(1878年)9月26日、浅草西鳥越町旧忍藩[20]にて死去[21]辞世は「勧学志無伸。終身臥草莽。蓋棺微百事。同人誰感賞。」「くちぬ名を問ふ人あらはかねてよりなき世の友をまつとこたへよ」[21]。9月27日神葬祭の後、忍藩の菩提寺谷中天眼寺に葬られた[22]。後に江東区東向島蓮花寺に改葬された。

昭和3年(1928年)、従五位を追贈された[23]

雅号の由来

「琴台」は琴を据える台の意で[24]、愛読書、梁橋撰『氷川詩式』にも採られる杜甫の詩「琴台」に拠ると見られる[25]

茂陵多病後 茂陵(司馬相如)多病の後
尚愛卓文君 尚ほ愛す卓文君
酒肆人間世 酒肆・人間の世
琴臺日暮雲 琴台・日暮の雲
野花留寶靨 野花宝靨を留め
蔓草見羅裙 蔓草羅裙を見る
歸鳳求凰意 帰鳳求凰(『鳳求凰中国語版』)の意
寥寥不復聞 寥寥として復た聞かず

文左衛門は師亀田鵬斎の通称に倣った[26]

転居歴

  • 芝宇田川町
  • 神田門内邸舎[10]
  • 文政10年(1827年)2月 - 住吉町[10]
  • 同年3月 - 浅草誓願寺門前[10]
  • 同年10月 - 下谷三味線堀[10]
  • 天保3年(1832年)12月 - 浅草阿部川町[10]
  • 天保4年(1833年)10月 - 通油町大丸新道[10]
  • 天保5年(1834年)5月 - 畑銀鶏宅[10]
  • 同年 - 根岸石田醒斎別邸[10]
  • 入谷[10]
  • 天保7年(1836年) - 下谷三味線堀星野邸門房[10]
  • 高田藩邸
  • 嘉永4年(1851年) - 越後国高田城下
  • 明治2年(1869年) - 池之端高田藩邸[10]
  • 明治5年(1872年) - 鳥越町忍藩邸[10]

主な著書

先哲叢談後編』
『先哲叢談続編』
『幼学詩韻』
天保13年(1842年)1月刊。漢詩初学者のため、95の詩題別に適当な詩句を集成[27]
『近代著述目録後編』
堤朝風『近世名家著述目録』に倣い、江戸時代の名家917名の著書を列挙[28]。写本として伝わり、里見敦愿に補校された。正宗敦夫の編纂校訂により『日本古典全集』に収録。
日本古典全集第六期之内 近代著述目録後編』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『新編幼学詩韻』
天保15年(1844年)春刊。105の詩題別に古人の詩659首を集成[29]
『新定詩語砕金』
弘化5年(1848年)1月刊。155の詩題別に詩語を集成[30]
『続聯珠詩格』
嘉永4・5年(1850・1851年)頃刊。于済撰、蔡正孫補正『唐宋千家聯珠詩格』に倣い、549家1408首を収める。政治とは無関係な書ではあるが、謹慎のため幕府の目を憚り、息子の鍈二郎名義で大坂で出版[31]
『伊豆七島図考』
嘉永元年(1848年)8月刊。伊豆諸島小笠原諸島について著し、海防論を説いた。嘉永3年9月幕府に咎められ、高田藩邸に幽閉された[32]
『清二京十八省輿地全図』
嘉永3年(1850年)9月刊。の盛京(瀋陽)、北京及び内地全十八の地理を解説。
清二京十八省輿地全図』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『聖世紹胤録』
明治3年(1870年)3月刊(翌年3月に発禁)。洞院満季本朝皇胤紹運録』に倣い、歴代の天皇について詳述[33]
聖世紹胤録 乾』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
聖世紹胤録 坤』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『尺牘新裁』
明治6年(1873年)刊。書簡の書き方を示す。
尺牘新裁 上』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
尺牘新裁 下』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『小学必読 女三字経』
明治6年(1873年)8月刊。『三字経』に倣い、女子の道徳を説く。
小学必読 女三字経』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『頭書類語 作文訓蒙』
明治12年(1879年)11月刊。書簡の文例を示した往来物
頭書類語 作文訓蒙』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
『補饑新書』
農書。死後の明治18年(1885年)5月、織田完之により刊行された。『近世地方経済史料』第7巻収録。
補饑新書』 - 国立国会図書館デジタルコレクション

人物

  • 6尺(約1.8m)の長身に赤ら顔で、顔を弄ったり長い耳朶を引っ張ることを癖にしており、このために血行が保たれ風邪にも罹らないなどと自慢した[34]
  • ところ構わず松かさや落ち葉、渋柿を拾い集め、燃料とした[34]
  • 酒を好んだが、一回の量は極めて少量で、菜を茹でた浸し物を肴とした[35]。潤筆料は酒1升を以ってし、数枚に渡ると2升かなどと戯れた[36]
  • 机の引き出しに色紙、糸、針等を蓄え、門下生の書籍に破損があれば自ら補綴した[35]
  • 小さい横帳を持ち歩き、誰の言であっても意に適うことがあれば書き留めた[36]
  • 高田城下を訪れた当時、高田地方には荷車が普及していなかったので、大八車の作り方を伝え、坂を登る時には「エンヤラホイ」と掛け声を出すよう教えた[37]

東条氏

先祖

東条家に伝わる系図によれば、同家の遠祖は清和源氏武田氏支流甲斐一条氏で、一条時信の子武川太郎義行が甲斐国東条に土着し、東条次郎義信を名乗ったのが始まりという[38]

  1. 東条次郎義信
  2. 東条次郎(掃部助)頼行[38]
  3. 東条次郎太郎(八郎左衛門)隆信[38]
  4. 東条太郎左衛門隆庸 - 村上義清に仕え、信濃国埴科郡尼巌城[38]
  5. 東条一郎信庸 - 川中島の戦いで討死[38]
  6. 東条太郎庸行 - 天正10年(1582年)3月武田勝頼没落後、河尻秀長に仕える[38]
  7. 東条太郎大夫庸言[38]
  8. 東条源左衛門庸元[38]
  9. 東条源大夫元胤[38]
  10. 東条八郎左衛門信名(元禄3年(1690年)1月18日没)[38]
  11. 東条信友(元文5年(1740年)8月23日没) - 友庵、橘井堂、三益と号す[38]
  12. 東条庸胤(明和5年(1768年)2月22日没) - 通庵、三省堂、杏翁と号す[38]
  13. 東条庸貞(文化14年(1817年)9月6日没) - 高徹、高哲と号す[38]

家族

  • 実父:東条黙斎 - 享伯[39]
  • 養父:平尾鍬蔵信従 - 号は他山。美濃岩村藩士[40]
  • 妻:貞(寛政8年(1796年) - 明治17年(1884年)) - 信従三女[40]
    • 子:平尾鍒蔵信享(文政元年(1818年) - 明治31年(1898年)) - 勤皇家[40]
  • 妻:某(寛政10年(1798年) - 天保5年(1834年)10月17日)[39]
    • 東条鍈二郎信升(文政12年(1829年) - 明治30年(1897年)10月17日)[39]
    • 子:某 - 天保5年(1834年)1月夭折[39]
    • 子:某 - 慶応3年(1867年)夭折[39]
  • 妻:てつ(天保13年(1842年) - 明治元年(1898年)5月21日) - 一橋徳川家幕臣[39]

脚注

  1. ^ 東京都港区新橋六丁目23番、東新橋二丁目12番、芝大門一丁目3番、浜松町一丁目1番、 10番、すなわち第一京浜浜松町一丁目交差点四方
  2. ^ 西尾(1918) p.12
  3. ^ 西尾(1918) p.23
  4. ^ 西尾(1918) p.24
  5. ^ a b 西尾(1918) p.34
  6. ^ 西尾(1918) p.59
  7. ^ 後・岡島町、現・新潟県上越市大手町
  8. ^ a b 西尾(1918) p.123
  9. ^ 後・幸橋町
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m 「東条琴台年譜」西尾(1918)
  11. ^ 西尾(1918) p.144
  12. ^ 西尾(1918) p.147
  13. ^ 西尾(1918) p.153
  14. ^ 西尾(1918) p.156
  15. ^ 西尾(1918) p.161-162
  16. ^ 西尾(1918) p.163
  17. ^ 梶原虎三郎編刊『官令全書 第一編 太政官』1880年、明治四年三月十五日達。
  18. ^ 西尾(1918) p.194
  19. ^ 西尾(1918) p.197
  20. ^ 台東区鳥越一丁目西部
  21. ^ a b 西尾(1918) p.199
  22. ^ 西尾(1918) p.200
  23. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.57
  24. ^ 諸橋轍次大漢和辭典』巻七 p.939
  25. ^ 西尾(1918) p.8
  26. ^ 西尾(1918) p.4
  27. ^ 西尾(1918) p.79-80
  28. ^ 西尾(1918) p.82
  29. ^ 西尾(1918) p.89
  30. ^ 西尾(1918) p.91
  31. ^ 西尾(1918) p.93-94
  32. ^ 西尾(1918) p.99
  33. ^ 西尾(1918) p.164
  34. ^ a b 西尾(1918) p.206
  35. ^ a b 西尾(1918) p.207
  36. ^ a b 西尾(1918) p.208
  37. ^ 西尾(1918) p.209
  38. ^ a b c d e f g h i j k l m 「東条家家譜」キャンベル(1988)
  39. ^ a b c d e f g 「東条氏略系」西尾(1918)
  40. ^ a b c d 「平尾氏略系」西尾(1918)

参考文献

外部リンク



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