東アフリカ世界の経済
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/12 11:40 UTC 版)
「ブーサイード朝」の記事における「東アフリカ世界の経済」の解説
19世紀初頭にはサウード朝とイギリスがペルシア湾貿易で強い力を持ち、ムハンマド・アリーの治下でエジプトが安定を回復したため、紅海交易が活発化する。ペルシア湾でのオマーンの勢力は次第に縮小していき、サイード・ビン・スルターンの時代に東アフリカが海洋貿易の新たな活動の場に選ばれた。 モンバサ、ラム、キルワ・キヴィンジェなどの遠隔地にはリワリ(総督)が配置され、土着の勢力への介入を控える間接統治が実施された。スワヒリ都市の大部分では、リワリ制度は大きな抵抗もなく受け入れられる。間接統治が敷かれた背景には、オマーンの支配層がイバード派を信仰するのに対して東アフリカ沿岸の都市の住民の大部分はスンナ派のシャーフィイー学派を信仰していた事、サイードの目的は領土拡張ではなく長距離交易路の確保にあったこと、都市社会への武力介入は想定されていなかったことが挙げられている。オマーン支配の経済効果の恩恵を受けて、マリンディ、モンバサ、ラム、キルワ・キヴィンジェ、バガモヨなどのスワヒリ都市に富が集中する。経済発展を遂げたスワヒリ都市への移民と旧市街の上流層の価値観の接触により、スワヒリ都市の先住支配者層の間で「アラブに倣う」ウスタアラブの潮流が顕著になる。 サイードがザンジバルに首都を建設したとき、島には先住民の首長ムウェニ・ムクーが指導する国家が存在していた。当初サイードは土着の行政組織を利用して人頭税の徴収、賦役を課していたが、奴隷労働力の増加に伴って人頭税と賦役は消滅した。1870年代にムウェニ・ムクーの首長は廃位され、シェバと呼ばれる行政区域の長はザンジバル政府の行政組織の末端に編入された。 サイードは年1回アフリカ内陸部に派遣するキャラバン交易、欧米諸国やそれらの国からザンジバルを訪れた商人との取引によって利益を得ていた。輸入関税を確保する重要な商品である象牙とコーパルはザンジバルに集められ、タンザニア沿岸部でのムリマと呼ばれる地域では欧米の商人はそれらの取引に従事することが禁止されていた。関税の徴収は商人に委託され、徴税請負人は入札によって決定されていた。インド系の商人は徴税請負人の制度を足がかりとしてザンジバルに拠点を築き、その中から強大な権限を持つシヴジ一族が現れた。 1833年にサイードはアメリカ合衆国との間にカピチュレーションを締結し、アメリカの商人に生命と財産の安全、治外法権を約束した。ザンジバルからはキャラバンがもたらした象牙、栽培が奨励されていたクローブや砂糖、アラビア半島から買い付けたコーヒーが輸出され、銃、弾薬、ビーズ、綿布、時計、鏡などを欧米から輸入していた。アフリカ大陸からザンジバルに運ばれる奴隷も主要な輸出品となっていたが、1873年にイギリスの介入によって奴隷交易は廃止され、アフリカ沿岸に留め置かれた奴隷は沿岸部の都市での農業活動に従事した。しかし、欧米の商人はサイードの商取引への介入に反発し、君主による欧米との交易は1852年に行われたイギリスとの交易が最後となった。
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