東アフリカの区分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/04 03:29 UTC 版)
歴史的に地理学者たちは、東アフリカ沿岸をおおまかにそれぞれの地域の住人に基づいて幾つかの地域に区切っていた。 北ソマリアには、古代ギリシア及び中世アラブの地理学者がそれぞれ東部「Baribah」つまり「バルバロイBarbaroi」(ベルベル人)と呼ぶ所のソマリ人の祖先の土地であったBarbara があった。現在のエチオピアには、en:al-Habashつまりアビシニアがあり、そこにはHabeshaの祖先であるHabashつまりアビシニア人が住んでいた。 アラブ人と中国人の資料は、アビシニア高原及びBarbara南部の地域全般を「ザンジュ」つまり「黒人の地」として言及している。 そしてそこには、ゼンジュZenjやズィンジュZinjとも転写される「ザンジュ」と呼ばれるバントゥー語話者の人々が居住していた 。 ザンジュの中心地域は、現在のモガディシュ南部 からタンザニアのペンパ島にかけて広がっていた。ペンバ島の南に現在のモザンビークのソファラがあり、その北の境界はen:Panganiであったと考えられている。ソファラの向こうには、モザンビークに位置するWaq-waq(ワクワク)との不明瞭な領域があった。10世紀のアラブ人歴史家で地理学者である マスウーディーはソファラがザンジュの集落の辺縁であると述べ、その王の称号をバントゥー語の単語の Mfalmeで呼んでいる。
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