東アフリカでの戦争と人々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 09:51 UTC 版)
「パウル・フォン・レットウ=フォルベック」の記事における「東アフリカでの戦争と人々」の解説
イギリス軍およびベルギー軍のドイツ領東アフリカへの侵攻は現地民およびドイツ人領主らに次々と壊滅的な影響を与える出来事を誘発した。侵攻は植民地の至る所でその地がもはや「豊穣な土地は得られない」かのような災難を引き起こした。 軍司令官フォン・レットウ=フォルベック大佐の最初の仕事は植民地総督ハインリヒ・シュネーの反対を押し切ることだった。総督は、戦争がドイツ領東アフリカに起こりうる最悪の災難だと考えており、それは「彼が成し遂げた社会的・経済的改革がすべて無に帰する」ということだった。 レットウ=フォルベックは連合軍と直面した際には後退し、逃げなくてはならないことを承知していた。それ故彼は、彼が計画したノイ・モシからウルグル山地に至る進軍路上に食料貯蔵所を設置した。近隣の村々が飢えたならば、それは戦争による不幸だった。ドイツからのいかなる援助も、イギリスの海上封鎖により深刻な供給不足を緩和することができなかった。1916年3月17日に蒸気船マリー・フォン・シュテッティン号がリンディの南に到着したときも、1,500トンの貴重な積荷でさえ、ささやかな援助にしかならなかった。1916年9月後半までにはダルエスサラームを含むすべてのドイツ領東アフリカ沿岸部と中央の鉄道路はイギリス軍の支配下になり、西部はベルギー軍に占領され、1917年12月中にドイツ植民地は公式には連合国の保護領と宣言された。 レットウ=フォルベックとヨーロッパ人、アスカリ、ポーター、女性および子供のキャラバンは脱走を防ぐため、慎重に現地人兵の部族居住地を迂回しながら行軍した。彼らは厳しい地形を越えて行った。「沼地とジャングル……憂鬱な眺めが(後任の)私の目前にあった」と連合軍司令官ヤン・スマッツは述べている。しかしスマッツはひるまなかった。スマッツの新しいアプローチおよび目的はドイツ軍防衛隊と戦うことではなく、敵の食料補給の後を追うというものだった。最終的にそれはしばらくしてスマッツが(戦時内閣に入閣するため)ロンドンに行き、J.L.ファン・デフェンテル将軍が東アフリカで指揮をとることになり終わった。 前タンガの病院長でレットウ=フォルベックと行動をともにした医師ルードヴィヒ・デッペは1919年の著書の中で、東アフリカにおける連合軍との戦争でドイツ軍により強いられた悲劇を、哀しみと後悔とともに振り返っている。「私たちの後には、私たちが荒らした田畑、破壊した倉庫が残され、そして、ほどなく飢餓が訪れた。私たちはもはや文明の仲介者ではなく、私たちの軌跡には死が刻まれ、村を略奪しては撤収し、ちょうど三十年戦争での私たち自身と敵軍との成り行きを見るようだった。」 そこにはドイツ軍の無神経さと冷酷さがあったが、イギリス軍あるいはベルギー軍によるドイツ領東アフリカでの慈悲の記録もまた無い。彼らはアフリカ人の福祉に対する責任を負わず、現地の栄養不良の人々に対する援助もほとんど行わなかった。実際に、連合軍部隊で食料が不足したとき、「イギリス軍アスカリは村を襲って略奪することに頼っていた。」1918年から1919年に世界的に流行したスペインかぜが東アフリカで蔓延したとき、現地人もヨーロッパ人も同様に数千の人々が病に倒れた。タボラキャンプの捕虜収容所に入れられたドイツ軍アスカリおよびポーターの集団など衰弱した多くの現地人は特に感染しやすかった。
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