時間と関心
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:40 UTC 版)
「マルティン・ハイデッガー」の記事における「時間と関心」の解説
ハイデッガーは西欧の通念となっている時間の概念を大きく変形させた。1920年代を迎える頃には既に、デカルト流の近代的時間論を見直す動きが出ていた。ハイデッガーはその中で、フッサールや生動論の哲学者アンリ・ベルクソンについて考察している。ベルクソンは『時間と自由』(1889)で、科学的知識と人間の体験性とを区別した。測定を旨とする科学は時間を空間的に扱い、分割可能、数量化可能な幾何学的単位の集合とみなし、記されている空間として扱う。(時計の文字盤、或はカレンダーの年月日など)しかし、人間が体験する時間は科学的ではなく、ベルクソンはそんな時間を、過去・現在・未来を含んだ「持続(durée)」と表現した。ベルクソンによれば「持続」は測定を拒否し、一定の規則も標準もないものとされる。フッサールはベルクソンの時間の主張を一歩進めて考察していた。フッサールは人間の意識の中に時間が「どんな姿で現れるか」を知ろうとする。例えば、意識は音楽の旋律をどのようにして知るのか。旋律はたとえ初めて聴いても最初から最後まで全て揃った全体として知ることができる。しかし、現実には区切られた音符の連なりに、時間軸に沿って順に出会っていく。フッサールは「旋律は意識の三つの作用が同時に働くことによってのみ知られる」とし、保持・注意・先見の時間意識を通じて未来・現在・過去が一体となったもの、一つに繋がったものとした。 ハイデッガーはまた、モーツァルトの手紙を引用している。 音楽のある部分が、そしてまた別の部分が次々に浮かんでくる。ちょうど対位法の規則に従ってパン屑を集めてパン菓子を作るような具合だ。パン菓子はどんどん大きくなり、やがて、頭の中で曲が殆ど出来上がる。……だから、あとになって心の中で全体を一瞥し、想像の中で全体を聴くことができる。結局、楽譜を書くときには順番に並べなくてはならないが、心の中では全てが同時に聴こえるのだ。 モーツァルトは時間を全てが集まったものと考え、線形や時計のように測定できるものでもないとし、ハイデッガーはこの考え方(聴くことと同義の見ること)を「我々に託された思考の本質」と考えた。これらの影響を受けたハイデッガーは1927年に、現存在は時間の中に存在するという説を展開した。現存在の「視界」が時間とされ、時間は「関心」の構造に組み込まれる。 (1)被投性―現存在は既に世界の中にあり『過去』から受け取ったものに対処している。 (2)投企―『未来』の可能性に投企しつつ、今を生きるという意味で現存在は常に「自己に先行」している。現存在の存在には、投企によって「まだ無い」ものが含まれている為、現存在が「今、この瞬間に全てがそこに」全体としてあるということはあり得ない。 (3)頽落ー現存在は『現在』の世界に専ら目を向け、手元にあるものと「彼ら」の世界の特定の「今」の中で次々に生じる配慮に対応している。 従って、現存在は根源的に「過去・あり得る未来・自己にとっての現在」という「三つの時制の全て」に存在し、ハイデッガーは時間を数量化しうる幾何学的な線的時間として生じるものではないとした。
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