旧新発田藩下屋敷とは? わかりやすく解説

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旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿)庭園および五十公野御茶屋庭園

名称: 旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿庭園および五十公野御茶屋庭園
ふりがな きゅうしばたはんしもやしき(しみずだにごてん)ていえんおよびいじみのおちゃやていえん
種別 名勝
種別2:
都道府県 新潟県
市区町村 新発田市大栄町
管理団体
指定年月日 2003.08.27(平成15.08.27)
指定基準 名1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 慶長3年(1598)、溝口秀勝加賀大聖寺から入封し、新潟県阿賀野川以北の地(揚北)に新発田城築き蒲原平野経営努めた新発田江戸時代通じて溝口氏城下町で、小藩ながら比較的豊かであった
 3代宣直は万治元年(1658)に曹洞宗高徳寺五十公野の上新保移し、その跡地を藩の御用地として下屋敷清水谷御殿建立したその後4代重雄の時に幕府茶道方縣宗知を新発田に度々招き作庭指導を受け、元禄年間(1688-1704)に清水谷五十公野法華寺などの庭園完成している。
 清水谷庭園は、北寄御殿上段から眺め大池泉を中心とした奥行きのある景を主としつつ、露地をわたりながら回遊する庭園として造られた。南最奥部築山築き水面左右に湾入して水面広がり思わせる。中景部は水面絞って左手州浜に、右手は岩を組んだ険しい岬の景とし、州浜越しには小島を、岬越し設ける。御殿寄りには水面大きく広がり、左に水面せり出す亭、右手にやや大振り中島設けている。江戸時代から、「」の字型に池を掘ったと言われているように、中絞りの池型は前後水面大きく見せ効果発揮し公儀茶道指南による往時庭園地割良好に保存している大名庭園である。廃藩置県以降次第荒廃進んだため、昭和12年復興計画立てられ戦争経て昭和30年復興事業完了した指導者田中泰阿彌で、回遊路に添った露地建物などはこの時の意匠である。
 五十公野御茶屋新発田藩主の別邸で、参勤交代にはここで旅装改めるほか、茶寮として重臣にも開放し遊楽の場とした。池を穿ち緩やかな起伏築山めぐらして諸国名所から取り寄せたスギ・マツの種苗植え中島風に出島設けてゴヨウマツを、御茶屋近くにはウメ植えるなど植物観賞重きを置いたものとなっていて、石組みはほとんど施さないゆったりとした造り庭園である。御茶屋と庭をつなぐ部分飛び石は縣宗知作と伝えられる庭園東の御腰山中腹には軒という四阿を建て領内眺望の場としている。
 現在の五十公野御茶屋文化11年(1814)に改築されたもので、夏座敷二部屋は開放的につくられ庭園十分に鑑賞できるようになっている。なお、御腰山上豊田神社は、新発田城本丸にあった歴代藩主祠堂奉先堂)を明治7年にこの庭園内移築再建して神社したものである。
 本庭園下屋敷御茶屋それぞれに異なった趣の庭園良好に保存され公儀茶道方が度々下向して指導作庭されたことがわかる庭園として貴重であり、越後代表する大名庭園であって名勝指定してその保護図ろうとするものである



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