日本での馬術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 04:30 UTC 版)
日本には4世紀末ころに中国大陸より騎馬の風習が伝わり、6世紀には広まることになった。その後、武芸の一つとして「弓馬の術」が、とくに鎌倉時代・室町時代以降に盛んになり諸流派を生んだ。(だが、戦国時代、関ヶ原の戦いを経て江戸時代にはいくさの無い世になり、数百年後、黒船が到来し)明治時代には明治政府は兵制の改革を行い、(日本式馬術は採用せず)洋式馬術が行われるようになった(これにより日本の古くからの馬術はほぼ廃れ、現在、一部の研究家が実践するにとどまっている。時代劇や大河ドラマなどの乗馬シーンのほとんどは、ブリティッシュ馬術かウェスタン馬術を用いている。) (明治政府が洋式馬術を導入し模倣したものの日本騎兵は西欧の騎兵と比べて軍馬の能力に劣っていた。)秋山好古(1859-1930)は騎兵科将校として陸軍大学校にも入学、欧州各地を視察し日本騎兵の改良を試み(当時、騎兵隊と言えばそれのみの編成であったが)騎兵以外の歩兵、砲兵、工兵などとの複合編成を編みだすことで弱点を補い、日露戦争で秋山支隊を率いコサック騎兵隊の大軍と戦いこれを打ち破った。西竹一(通称「バロン西」。1902-1945。男爵。陸軍軍人)は1932年ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技で金メダルを得た。 第二次世界大戦の敗戦により、日本では兵科としての騎兵科は廃止され、馬術の拠点の一つが失われた。また、当時は既に世界中で騎兵そのものが廃れつつあり、それに代わって自動車化歩兵(機械化歩兵)や戦車が急速に台頭する時代に突入しており、国防組織として警察予備隊、保安隊、陸上自衛隊が発足しても、騎兵は復活しなかった。 馬術には、馬匹と馬場・厩舎等の設備が不可欠であり、戦後期には(乗馬クラブも平成時代以降ほどには普及していなかったので)学生馬術が馬術競技を行う主体として重要であった。現在でも日本では、乗馬、特に馬術競技を始めるきっかけとして、大学体育会馬術部の存在は大きい。大学体育会馬術部の競技会として、1928年(昭和3年)に第1回全日本学生馬術選手権大会が開催された。1957年(昭和32年)には、日本馬術連盟の傘下団体として、全日本学生馬術連盟が組織された。全日本学生馬術連盟は、全日本学生馬術大会(全日本学生賞典障害馬術競技大会・馬場馬術大会・総合馬術大会)および全日本学生馬術選手権大会・女子選手権大会を主催している。 平成期以降の日本には乗馬クラブが多数あり、ブリティシュ馬術やウェスタン馬術を習得することが可能となっている。また(ほそぼそとであるが)流鏑馬や犬追物が伝統文化として継承されてはいる。
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