日本でのフランス文学
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「フランス文学」の記事における「日本でのフランス文学」の解説
「フランス文学者」および「日本の近現代文学史」も参照 開国以前は日本とフランス文学との接触はほぼなかったが、明治政府の文部省は1877年(明治10年)までに28人のフランス人をお雇い外国人として招致しフランス語教育を行った。1878年(明治11年)には、横須賀造船所黌舎でフランス語を習得した川島忠之助によりヴェルヌ『八十日間世界一周』が原文から翻訳される。1882年(明治15年)には、江戸幕府の語学所学頭からフランス語を学んだ中江兆民がルソーの『社会契約論』を翻訳紹介し、自由民権運動の理論的支柱となった。 1889年(明治22年)には帝國大學(現在の東京大学)に仏文科が設置される。当初は不振であったが、1923年に日本人初の教授として辰野隆を迎えて以降は岸田國士、鈴木信太郎、三好達治、渡辺一夫、小林秀雄、太宰治(中退)、中村真一郎、福永武彦、澁澤龍彦、大江健三郎、蓮實重彦などの文学者やフランス文学の紹介者を輩出した。 1901年(明治34年)よりデュマ『巌窟王』、翌1902年よりユーゴー『噫無情』が黒岩涙香の翻案により新聞『萬朝報』に連載され大衆的な人気を博す。またゾラやモーパッサンらの自然主義文学の影響から日本でも島崎藤村『破戒』(1906)や田山花袋『蒲団』(1907)などの自然主義小説が書かれたが、『蒲団』における私生活の赤裸々な告白の衝撃により以後は告白の側面が強い「私小説」へと転じていった。ゴーティエの「芸術のための芸術」は芸術至上主義として形成期の日本文壇で議論の的となり、石川啄木『時代閉塞の現状』(1910)、芥川龍之介『河童』(1927)、萩原朔太郎『詩の原理』(1928)など数多くの言及がある。 1905年(明治38年)には上田敏が訳詩集『海潮音』で7編の「象徴詩」を日本に紹介した。1907-8年に銀行員としてパリに渡った永井荷風はその経験から『ふらんす物語』(1909)を著し、1913年(大正2年)には訳詩集『珊瑚集』で象徴派以降のフランス詩をまとまった形で日本に紹介した。堀口大學も1918年の訳詩集『昨日の花』を皮切りに『月下の一群』(1925)などフランス詩の精力的な翻訳紹介を行い、これらの訳詩は近現代詩の形成に大きな影響を及ぼした。ボードレール『巴里の憂鬱』(1929)を訳した三好達治と『ランボオ詩集』(1933)を訳した中原中也は口語自由詩、散文詩の開拓者となった。 戦争勃発後も、フランスは日本にとって敵性国家となったのが遅かったため、戦時中にもヴァレリー全集の刊行が続き、ジッドの『狭き門』や『田園交響楽』が女学生の愛読書となるほど人気を集めた。敗戦直後に翻訳出版が再び活発化したが、GHQは米国の暗黒面を描いたものや占領政策と相いれない主張のアメリカ文学の翻訳出版を許可せず、ロシア文学の出版にも干渉したため、フランス文学の翻訳が中心となり、GHQの出版統制が強まる1940年代末まで活況を呈した。
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