日本でのブレイクまで
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「ゲイリー・ムーア」の記事における「日本でのブレイクまで」の解説
同年9月MCA最後のシングル「Spanish Guitar」をリリース。 グレン・ヒューズとのグループは頓挫したものの、元CBSのディレクター、ドン・アーデン(シャロン・オズボーンの父親)が立ち上げたレーベル、ジェット・レコードと契約。「スーパー・ギタリストの新グループ」名目のもと、複雑なリズムを多用したバンド、G-Forceを結成。メンバーはマーク・ナウシーフ(元エルフ、イアン・ギラン・バンド)、トニー・ニュートン(アラン・ホールズワースの在籍したニュー・トニー・ウィリアムス・ライフ・タイムのベーシスト)、シンガーのウィリー・ディー (ウィリー・ダファーン)(キャプテン・ビヨンド)。 1980年5月、イギリスでアルバム『G-FORCE』をリリース。同年6月、ホワイトスネイクのサポート・アクトとしてイギリス・ツアーを行うが、グループ活動はうまく行かずに停止させる。アルバムはアメリカン・パワー・ポップ風なサウンドを狙ったが、アメリカ国内での配給先を決定する前に、この1枚でG-Forceは解散、予定していた8月のレディング・フェスティバルへの出演をキャンセルした。ジェット・レコードは同年11月にマーキー・クラブでライブ・レコーディングを行う。メンバーはドン・エイリー、アンディ・パイル、ケニー・ドリスコール、そしてアメリカから招いたトミー・アルドリッジであった。 1981年、スタジオ・アルバムの制作をドン・エイリー、ジミー・ベイン、トミー・アルドリッジ、シャーリー・ヒューンとで行なったが、別の日本からのオファーによるドラム奏者、コージー・パウエルのソロ・アルバム制作を同時に行なったことが原因で、ジェット・レコードとの間の契約違反事項となり、ムーアのソロ・キャリアはしばらくの間、問題への対処のため活動を制限されることを余儀なくされた。 ジェット・レコードとの契約解消のためにソロ活動を封じ、同じマネージメントに所属をしていたグレッグ・レイクのソロ・アルバム『グレッグ・レイク&ゲイリー・ムーア』に参加する必要があった。レイクの復活ツアー・メンバーにてムーアがバンマスを任されて、ウッドストックでジョー・コッカーの仕事をしたトミー・エアーがサポートした。ほかにテッド・マッケンナ(センセーショナル・アレックス・ハーヴェイ・バンド)、レイクが推薦したトリストラム・マーゲッツが参加。ムーアとレコーディング・メンバーはプロモーション・ツアーに同行、ムーアは自作曲「ニュークリア・アタック」を提供することで、レコーディングの報酬を得て、かねてからハード・ロック・ビジネスのマーケットに興味を持っていたサー・リチャード・ブランソンのヴァージン・レコードが裁判費用を提供してアーデンとの契約を解消。1982年、これによりヴァージン・レコードと契約し、イアン・ペイスを加えたバック・バンドを売りにレディング・フェスティバルに4年越しでソロ・アーティストとして登場した。同年3月から録音にとりかかったレコーディングは、9月にアルバム『コリドーズ・オブ・パワー』としてリリースされ、全英アルバムチャート最高位30位を記録した。同作は11月に日本発売され、オリコンLPチャートで最高29位となっている。 1983年1月に初来日公演。チケットは即日完売し、追加公演も組まれた。来日メンバーはイアン・ペイス、ニール・マーレイ、ドン・エイリー、ジョン・スローマンという豪華な顔ぶれであった。プロモーションとしてテレビ朝日の人気音楽番組『ベストヒットUSA』に出演、シンコー・ミュージックから『100% Gary Moore』なる特集/スコア本も発刊された。 同年、日本公演を収めたライブ・アルバム『ロッキン・エヴリ・ナイト (ライヴ・イン・ジャパン)』が日本のみで発売された(配給は東芝EMI)。同アルバムはオリコンLPチャートで15位を記録している。なお、日本での異常なまでの人気ぶりに便乗して、ジェット時代の未発表作品を、その販売権を得たソニー・レコードが『ダーティ・フィンガーズ』、『ライヴ・アット・ザ・マーキー』として相次いでリリースしたため、1984年のワールド・ツアーを収録したライブ・アルバム『We Want MOORE!』の日本発売は見送られた。
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