文献の考証
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 03:20 UTC 版)
『古事記』『日本書紀』では上毛野氏に関して多彩な伝承が記述されるが、7世紀中葉(大化前後)を境として唐突に史録として記載されるため、伝承と史録との間には大きな溝がある。史録の部分からは毛野との関わりをうかがえる記載は少なく、この間をどう扱うかが氏族を把握するための鍵となっている。毛野地域内には、豊城入彦命を始めとした『日本書紀』の伝承にある人物の陵墓と伝わる古墳が多くあり、伝承に何らかの背景があったことが指摘されており、その中で、毛野の地域づくりが東国経営の拠点と位置づけられ、それを世襲的に任された王族がいたことも示唆される。ただし実際のところ、毛野の豪族が在地豪族であったか中央派遣氏族であったかは明らかとなっていない。 中央派遣氏族か在地豪族かについて前述のように『古事記』『日本書紀』では朝廷から祖先が派遣されたと記すほか、『国造本紀』の上毛野国造条にも他の国造の項にあるはずの「定賜国造」の文言がなく、これらをもって上毛野氏が中央からの派遣氏族だとする主張がある。上毛野国造の記述は史書にはなく存在は不確かであるが、畿外勢力でありながら中級貴族官人となり得た上毛野氏始め東国六腹朝臣は、他の国造グループとは一線を画すものだという指摘もある。 一方で、実際には上毛野(上野)・下毛野(下野)に分かれる以前に存在した「毛野政権」の王であった豪族と見る考えもある。これに関連して、武蔵国造の乱における上毛野氏の立場から、上毛野氏は6世紀前半期まで大和朝廷に対抗出来るだけの勢力を有していたとみる見解も古くから存在する。後述の古墳の変容を踏まえても、5世紀代にヤマト王権と同盟・連合関係にあったと考えられる「毛野政権」は、解体を経て6世紀前半からヤマト王権の体制に入っていくと見る説がある。 この毛野政権説に関して、独立国家(政権)を立証する史料がほとんど確認されていないまま古墳の数や規模だけで安易に王権・政権を唱える立場を疑問とし、ヤマト王権の勢力拡大過程の検討や系図史料の検証、子持勾玉の出土や祭祀・習俗における三輪氏・吉備氏との近似性から、上毛野氏は三輪氏の初期分岐氏族(磯城県主)の後裔で中央派遣氏族であるとの指摘もある。 紀伊・和泉との関係について赤城山を祀る赤城神社には、上毛野氏による創祀伝承が残っている。『日本書紀』では豊城入彦命の母が紀伊出身と記載がある。また「赤城」の由来の一説としても、上毛野氏が歴史編纂にあたって祖先と発生地を「紀(き = 紀伊)」地方に求め、祖先の名を「とよき(豊城入彦命)」・信仰する山を「あかき(赤城山)」とした、と関連づける考えがある。 これに関連し、『新撰姓氏録』の豊城入彦命後裔として諸蕃雑姓の和泉・摂津・河内のグループがあることに着目し、紀伊に始まって5世紀まではこれらの地で勢力を築き、のち6・7世紀は東国に移住して勢力を伸ばし、8世紀以後は中央貴族として活躍したという説が提唱されている。 また毛野氏族の分布からみて、和泉の茅渟地方にその起源をもつ血沼之別(磯城県主支流)の流れと見る説もある。 三輪山との関係について豊城入彦命が夢の中で御諸山(= 三輪山)に登ったという伝承や、御諸別王の名、田道の墓から大蛇が出たという説話、形名の妻が弓弦を鳴らさせて蝦夷を破ったという説話から、御諸山の神を奉じて東国経営を行なったことが示唆される。また上毛野国造、下毛野国造の両国には式内社で大神神社や美和神社、大国神社が見られ、赤城神社においても大己貴神を祀るなどしている。
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