文献への登場
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中国では、紀元前(BC)1150年ごろに「塵雨」と呼ばれていたことが分かっている。史料においてはこのほか、「雨土」「雨砂」「土霾」「黄霧」などの呼称があった。また、BC300年以後の黄砂の記録が残された書物もある。 朝鮮では、『三国史記』に、新羅時代の174年ごろの記述として「ウートゥ(雨土)」という表現が残っている。怒った神が雨や雪の代わりに降らせたものと信じられていた。644年ごろには黄砂が混ざったと見られる赤い雪が降ったという記録も残っている。 日本では、『吾妻鏡』 文永3年2月1日(グレゴリオ暦1266年3月16日)付けで「晩に泥の混じる雨降る。希代の怪異なり。」と記される。さらにその件についてのコメントとして、天平14年(742年)に陸奥国で「丹雪」(赤い雪)が降ったとされることなどの古例を挙げ、泥の雨は初めてだがそういうことも起こりうるのだろうと述べられている。1477年には紅雪が降ったとの記録(『本朝年代紀』による)が残っている。江戸時代ごろから、書物に「泥雨」「紅雪」「黄雪」などの黄砂に関する記述が見られるようになった。また、俳句の季語としては「霾(つちふる・ばい)」「霾曇(よなぐもり)」「霾風(ばいふう)」なども用いられている。
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文献への登場
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「レフ (ボヘミアの公)」の記事における「文献への登場」の解説
初めてレフに言及した史料はフランク王国年代記で、805年の項においてカール大帝の息子小カールがボヘミアのスラヴ人平定に赴いたという記述がある。この年代記によれば、小カールは「この地を荒野と化し、彼らの長であるレホ(Lecho)という者を殺した」という。レホが現在ボヘミアと呼ばれている地域全域を支配していた可能性は低い。おそらくは彼の国は独立性の高い諸部族から構成された連合であり、ことによると当時勢いを増していたモラヴィア王国と何らかの従属関係を結んでいた可能性もある。中世前期のよく知られたボヘミア国家が成立するのは早くとも9世紀末、ボジヴォイ1世やスピチフニェフ1世、あるいはそれ以降のプシェミスル朝のボヘミア公が現れて以降のことである。 レフという名については、スラヴ人誕生伝説においてポーランドの建国者とされる人物も同名である。
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