文献の記載
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/08 17:04 UTC 版)
正史に「拂菻」という地名を載せるのは、『隋書』が最初である。波斯の西北4500里にあるとする。 『大唐西域記』巻11「波剌斯国」(ペルシャ)では、西北に「忽懍国」(懍は菻と中古音で同音)があるとする。水谷真成は「フルム」と読んで、イラン語族が東ローマを指す語とする。 『通典』巻193(辺防、西戎五)に引く杜環『経行記』(8世紀)には、拂菻国は大秦ともいうとして、その風俗を詳しく記している。 『旧唐書』巻198によると、貞観17年(643)「拂菻王波多力」(波多力は「Papas Theodoros」の音写か。ただ、当時の皇帝はコンスタンス2世であり、該当する人物が定かではない。)の使者が来訪したのを皮切りに、開元七年(719)まで、しばしば拂菻王の使者が中国を訪れ朝貢した。また拂菻国は大秦のことであり、西海のほとりにあり、東南は波斯に接するとする。 『宋史』巻490によると、北宋の元豊4年(1081)、拂菻国の王「滅力伊霊改撒」(東ローマ帝国皇帝Melissenos Nikephoros Kaisar=ニケフォロス3世ボタネイアテスの音写か)が、使者として「大首領」の「儞廝都令廝孟判」(Maistre Simon de Montfortの音写か)を遣わして中国に朝貢した。 『明史』巻326によると、元の末期に拂菻の「捏古倫」というものが来朝し、そのまま帰国できなくなった。明の洪武帝はこれを聞くと、洪武4年(1371年)8月、自らが大明を打ち立て、世界平和をもたらそうとしていると伝えて欲しいと詔を下し、朝貢を促す使者とさせた。一度は朝貢して来たが、その後は二度と来なかったという。 『明史』に拂菻の最期は記録されていないが、万暦年間に来朝した大西洋人(マテオ・リッチらイエズス会の宣教師を指す)の言として、天主耶穌の生誕地は德亞(ユダ)であり、これは古の大秦国であると記されている。 『明史』には新たに意大里亞(イタリア)伝も立ったが、「意大里亞」と大秦・拂菻の関係は記載されていない。
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