文学・芸術の革命と社会革命
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「フランシス・ポンジュ」の記事における「文学・芸術の革命と社会革命」の解説
社会党に入党したのは1919年であったが、1926年発表の『12の小品』は反響がなく、1929年にオデット・シャバネルに出会って1931年に結婚すると、生計を立てるために、アシェット出版社(アシェット・リーブル)の創設者ルイ・アシェット(フランス語版)が創設した刊行物輸送会社「アシェット運輸」に就職した(1937年に解雇)。ほかにも臨時の仕事を兼ねながら生活の厳しさ、社会的現実の厳しさに直面し、1935年に娘アルマンド(父の名前アルマンの女性形)が生まれると、翌1936年に労働総同盟に加入して労働運動に参加し、翌1937年には労働総同盟の代表を務めた。同年にはさらに、社会党の最左派によって1921年に結成された共産党に入党(1947年離党)し、翌1938年からは保険会社に勤務した。 ポンジュが、早くも1926年末から翌1927年にかけて共産党に入党し、文学・芸術の革命であるシュルレアリスムを社会革命へつなげようとしたルイ・アラゴン、ポール・エリュアール、アンドレ・ブルトン、バンジャマン・ペレらのシュルレアリストに出会い、この運動に近づいたのはこうした背景による。実際、文学の伝統に決別して無意識、夢、偶然、不条理に新たな表現を見いだそうとしたシュルレアリスムは、既成の言語習慣への抵抗と新たな言語の創造を目指すポンジュの探求と同じ方向を目指すものであり、ポンジュは、1924年創刊の文芸誌『シュルレアリスム革命』の後続誌として1930年に創刊された『革命に奉仕するシュルレアリスム(フランス語版)』の創刊号に寄稿している。だが、ポンジュはブルトンを中心とするシュルレアリスムの「運動」とは常に一定の距離を置き、自動記述や睡眠実験などの活動には一切関わっていない。主観や感情、人間中心主義を排したポンジュのシュルレアリスムは、むしろ、サルバドール・ダリやアルベルト・ジャコメッティのシュルレアリスム的なオブジェの描写であり、現代芸術と同様にオブジェを介して外部に開かれた作品を制作し、制作の現場を提示すること、無意識、偶然性・偶発性に任せて書くのではなく、オブジェに限りなく近づくために、何度も読み直して修正を加え、常に制作中の作品を制作し続けることであった。ポンジュは「真の前衛とは、優れた古典を受け継いでいくことができること」と定義し、新たな価値の創造を目指しながらも言語・文学の遺産を守ること、象徴主義、シュルレアリスムに傾倒しながらも古典主義の合理性、明晰さ、調和を重視した。したがってポンジュは、一方で、マラルメ、ランボー、アルベール・ルーセル、ストラヴィンスキー、ピカソを評価しながら、他方でホラティウス、フランソワ・ド・マレルブ(フランス語版)、ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ、ジャン=フィリップ・ラモー(バロック音楽)、ジャン・シメオン・シャルダン(ロココ時代、特に静物画)に多くを負っている(特にマレルブについては1965年に評論を発表している)。特に大きな影響を受けたのはホラティウスの『詩論』や、エピクロスの原子論に基づいて自然と文化のあらゆる現象を謳った哲学詩『事物の本性について』を著したルクレティウスの唯物論である。
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