文学者としての宙外
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 17:45 UTC 版)
文学者としての宙外の活動は概ね、以下の3期に分けられる。 家庭小説『ありのすさび』で文壇デビューを果たしたのち、政治小説『腐肉団』発表するまでの1895年から1900年までの時期。この間、宙外は『闇のうつゝ』『誰が罪』『思ひざめ』などを発表して注目され、その一方で「新著月刊」を編集し、森鷗外との「性格論争」をふくむ活発な評論活動を展開した。 春陽堂に入社後、猪苗代湖畔に暮らしながら創作活動をつづけ、編集に従事した1900年ごろから自然主義興隆の1907年ごろまで。この時期はいわば「硯友社の客将」とみなされ、泉鏡花、国木田独歩、徳田秋声らの作品を紹介する一方、薄田泣菫や正宗白鳥らの新人を発掘して「新小説」黄金時代をもたらした。一方ではみずから晩年に著した『明治文壇回顧録』で述べるように「思想惑乱の時代」でもあって、創作上の限界を感じていた時期にあたる。東京専門学校時代からの学友で文学上のライバルでもあった島村抱月を強く意識した。 反自然主義を唱えてから春陽堂退社までの1907年ごろから1910年暮れまでの時期。ヨーロッパ留学から帰国した抱月に対して羨望と劣等感を感じながら、性格の違いもあって硯友社文学の生き残りのような状況を呈していた。こののち小説は散発的にしか書かなくなり、春陽堂退社をもって事実上の文壇引退とみなすことができる。
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