敷地造成と安全審査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 15:20 UTC 版)
「福島第一原子力発電所1号機の建設」の記事における「敷地造成と安全審査」の解説
1966年5月の発注時、ゼネコンへの現場説明は5月中に終えて6月より掘削整地を開始する予定となっていた。実際の工程もほぼそのような流れで1966年6月より埋め立て、敷地造成等の工事を開始。元々35mの高さの台地を上記岩盤設置の都合から海抜10mに造成し1967年3月末に完了、GEに引き渡され1号機の建設工事が開始された。 1号機の設置許可申請書は1966年6月1日に提出され、6ヵ月後に許可された(7月1日とする資料もある)。審査は原子炉安全専門審査会(会長向坊隆)で、7月1日付の申請に対して7月25日の第40回審査会にて委員13名より成る第27部会(部会長川崎正之)を設置し、審査を開始した。同部会は通産省原子力発電技術顧問会と合同審査を実施、炉、耐震、環境、プラント、電力の5つのグループを設定し、延べ約30回に渡る審査を実施し11月2日審査を完了、内容を妥当なものとして原子力委員会に報告した。 この時通産省側で審査を担当していたのは通産省公益事業局原子力発電課で、美浜発電所1号機と同時進行だった。課長だった井上力によると最盛期には週に数回審査絡みの会合を開いていたと言う。一方、当時審査に関わった東京電力の榎本聡明によれば、安全審査は1〜2週間に1度のペースで進められ、「今から見れば勉強会的な雰囲気」であり、審査の合間に研究機関等へ指導を仰いだり、GEとのテレックスでのやりとりを頻繁に実施し、技術の吸収に務めた。なお、プラントレイアウト及び取水方法の検討は許認可手続き及び契約業務と並行して進められた。 ただし、電力公害研究会はこの原子力委員会の安全審査について本発電所を例示し、部会会合9回(正味7回)、現地調査4回、審査開始1ヶ月後に審査状況報告、検討事項のとりまとめと中間報告の検討は2ヵ月後、部会報告書類の検討は3ヵ月後という同委員会の報告書からの実績を引用し、「監視や規制をすべき原子力委員会は一つ一つの安全性の研究による確認もせずに(中略)「安全である」との結論を出して(中略)建設を許しています」「このメンバーの顔ぶれからして本業のかたわらに審査委員を兼ねており、部会や各グループの会合(机上審査)以外に安全審査にどれだけ時間をさいたかはある程度うかがい知ることができます」と批判している。 12月の許可から一週間後、上述のように1号機について、GEとの一括購入契約が結ばれた。 結果として、BWRの導入はパイロット機関である日本原電が先行して敦賀発電所に建設することになり(東京電力初の原子炉に沸騰水型が採用された経緯を参照)、東京電力は敦賀1号機の1年遅れで工事を実施するように計画を立てた。通産省原子力発電課長の井上力(当時)は温厚さで知られる人物だったが、井上琢郎はこの計画立案の件で「もっと敦賀の経験を見てからにすべきではないですか」と強い語調で言われたという。 1967年4月1日には起工式が執り行われ、晴天で風の強い日であったという。
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