敬神義塾設立と結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 22:17 UTC 版)
応助宅の近所、やはり小牧町大字山東に天理教小牧支教会があり、その初代教会長は市村末彦と言った。元士族の市村は学問好きで応助と語らったが、市村の願いで教会にいた青年数名に、教会の建物を借りて本居宣長『古事記伝』や『日本外史』、『国史略』を講学することになった。これは私塾にまで規模が発展し、1914年(大正3年)に「敬神義塾」と名付けられた。全く月謝を受け取らず1917年(大正6年)頃まで大槻磐渓『近古史談』や『日本外史』、『孝経』、『千字文』、『十八史略』、『四書』等を講義しつづけ、受学者の数は千にも及んだと言う。敬神義塾設立と同時期、名古屋市南久屋町に漢詩人として著名であった水谷奥嶺がいて、これを得意の自転車で訪い、朱子学などを談じた。そこから他の名古屋の学者とも親交を深めることができた。またやはり同時期(24歳の春)、天理教教育顧問、天理中学校(旧制)校長を務めていた法学者、廣池千九郎が小牧教会を来訪し、応助は三礼のことなど中国思想や中国史について大いに語らった。廣池は当時奈良県山辺郡丹波市町(現在の天理市丹波市町)に住んでいた。応助は廣池に面会したいときは母に用意してもらった日の丸弁当を六食分持って小牧を自転車で出発、東海道を下って亀山附近でペダルを漕ぎながら弁当を食べ、夕方に丹波市着、廣池と夜半過ぎまで語り合い、終ると近くの養徳院(天理養徳院)に宿泊した。夜が明けると廣池に挨拶後、奈良街道から木津街道を通って伊勢路へ、その日のうちに家に帰る、という行程を数度もこなしたと言う。また、当時京都帝室博物館部長を務めていた漢学者の青木咸一(碧処)と知り合いであり、博物館を見学するためにやはり朝早く小牧から自転車で中山道を西へ、醒ヶ井辺りで弁当を食べながら漕ぎ漕ぎ逢坂山から蹴上インクラインの側道を通って夕方には三条大橋に。やはり材木商を営む伯父の住んでいた島原で一泊し、翌日青木の案内の元に博物館中を鑑賞し回るということも約3年間、毎月陳列替えのたびに行っていた。 1917年(大正6年)、更なる家計困窮に伴い測量技術を学び、税務署の臨時雇の任に着いた。また、1915年(大正4年)から『早稲田大学文学科講義録』で学習を始め、1917年に早稲田大学校外生文学科試験に合格した。この校外生とは一種の通信教育制度のことである。同年母の病状が悪化したため、応助には更なる勉学のため上京する意志があったものの取りやめとなった。看病に困っていたところ、天理教徒であった河田ていが17歳で応助と結婚し、母の看護に従事した。1919年(大正8年)、母の病状が進行し半分寝たきりにまでになり家運はさらに凋落した。そのため家を親族へ売り払って下之町(同じ小牧町内)の借家にまず母のみ移し、追って自分と妻も住いしていた教会裏の塾からこの借家に引越した。この借家は二室七畳半という狭さであったが、その折、働きに出ていた応助の弟も病に罹って帰郷してきて、母と弟という二人の病人を同時に抱えることになってしまった。塾校舎を引き払ったため門下生への講義の続きはこの借家ですることになった。 1919年(大正8年)から、楽田村(現犬山市楽田)から委託され道路拡張に伴う測量と事務の仕事に従事した。楽田附近の河北(現大口町河北)には画家の仙田半耕が住んでいてこれに画を習った。母みきと弟はともに、1920年(大正9年)春に病歿した。ほぼ同時に二人の肉親を亡くし大きく悲痛する中、応助は楽田での仕事を終え、続いて巾下耕地整理組合からの嘱託でその第七工区の事務仕事の任に着いた。
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