支持率低下と2010年総選挙での大敗
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「ハンガリー社会党」の記事における「支持率低下と2010年総選挙での大敗」の解説
しかし選挙での勝利後、ジュルチャーニ首相は選挙公約に反して大幅な緊縮政策を相次いで発表、社会党の人気は一挙に低迷した。国民の不満がくすぶる中、2004年の首相就任以降、虚偽の経済実績数値発表を行っていた事実を語った発言が2006年9月に暴露され、9月からハンガリー動乱50周年である10月23日にかけ、大規模なジュルチャーニ首相辞任要求・反社会党の暴動・抗議デモが発生した。9月に行われた地方自治体選挙では野党フィデスに敗北し、国民から大きく支持を失った 右派からの批判に対し、ジュルチャーニ首相は、財政赤字の建て直しなど諸改革推進の必要性を訴えて、辞任要求を断固として拒否したが、2009年3月に行われた党大会の場で首相を辞任する旨を表明(後任首相はバイナイ・ゴルドン国家開発・経済相)、党首の座も退いた。しかし党勢低下は止まらず、地方選挙や補欠選挙で相次いで敗北、2010年4月の総選挙ではフィデスに大敗を喫して議席を大幅に減らし、下野した。選挙後の7月、メシュテルハージ・アティッラ国会議員団長を党首とする新執行部を選出した。10月に行われた統一地方選挙でも首都ブダペスト市長選挙でフィデス候補が社会党候補に大差で圧勝するなど、敗北、選挙後にはスィリ元国会議長が離党、新党「社会同盟」に参加した。 11月2日、与党フィデス議員が提出した、左派メディアが支配的な状況を是正しようとする「メディア法」が賛成多数で可決、またフィデスが憲法裁判所の権限を縮小する憲法改正発議を行う意向を示したことに対し、野党や市民による抗議集会が行われ、社会党もメシュテルハージ党首やジュルチャーニ元首相らが参加して集会を行った。 党分裂2011年9月に入り、社会党の刷新を要求するジュルチャーニ元首相ら党内会派「民主連合」とメシュテルハージ党首など社会党執行部の対立が表面化した。同月26日に党内会派による会合が持たれ、オルバーン首相政権交代や党内改革など4項目からなる共同宣言に署名したが、民主同盟は署名せず党内対立は解消されなかった。 10月22日、ジュルチャーニ元首相ら10名が離党し、新党「民主連合」の結成を表明、11月6日に民主党を改編する形で正式に発足したことで、社会党は分裂した。 2013年8月、メシュテルハージーはE2014-PM(「共に2014年」「ハンガリーのための対話」選挙連合)代表であるバイナイ前首相との会談で、翌14年に予定されている総選挙において統一候補を小選挙区で擁立する方針で合意した。そして翌2014年1月にはE2014-PMに加え民主連合や自由党も加えた中道左派連合(首相候補はMSZP党首のメシュテルハージー)を結成することで各党間の合意が成立し、同年4月に行われた総選挙に挑んだが、連合全体で199議席中38議席(小選挙区10+比例代表28)に留まり政権奪回は果たせなかった。総選挙翌月の5月に行われた欧州議会議員選挙では社会党単独で挑んだが、11%の得票に留まって現行の4議席から2議席に減らして極右政党であるヨッビクに次ぐ第三党に後退した。選挙後の5月29日、メシュテルハージーは総選挙と欧州議会議員選挙における敗北の責任を取って党首と国会議員団長の職を辞する意向を表明。翌30日の党会合で7月19日に新党首を選出と新たな党指導部を構成することを決定。7月19日の臨時党会合で党の暫定国会議員団長を務めていたトービアーシュ・ヨージェフを新党首に選出、5月末以降から臨時党首を務めていたボトカ・ラースローは党評議会議長に選出された。 2016年6月25日に開催された党大会では、元国会議員でブダペストの第11区長などを務めたモルナール・ジュラが新たに党首に選出された。 2018年4月8日に行われた総選挙では、前回より得票数、議席数共に大幅に減らし、ヨッビクに次ぐ議会第三党に後退した。
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