拉致と拉致報道
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増元るみ子(当時24歳)が交際相手の市川修一(当時23歳)とともに失踪したのは1978年8月12日の午後、照明が大学4年の夏休みで実家に帰省しているときのことであった。前日の夜、るみ子は母とフミ子と照明に「明日、市川さんという男性と吹上浜へ夕陽を見に行く」と嬉しそうに語っていたが、照明は内心ショックを受け、寂しさも感じていたという。12日の土曜日、るみ子は半日の仕事を終えて帰宅し、戸外で待つ修一の自動車に乗って遅く起きた照明に「行ってきます」と照れ臭そうに笑った。それが照明が見た最後の笑顔であった。 深夜になってもるみ子が帰らないので家族は心配した。遅れるときは必ず、電話を入れたし、無断外泊をするような人ではなかった。1日だけ待って14日早朝、市川・増元両家で捜索することとし、日置郡吹上町(現、日置市)の吹上浜キャンプ場に行くと、鍵のかかったままの市川の自家用車があり、窓から車内を見ると、カメラとるみ子のバッグがあった。市川・増元両家の親族が2人の名を呼びながら付近を探し回ったが、手がかりとなるものは見つからず、加世田警察署に捜索を依頼した。この日はまた、偶然にも長男信一から電話が入っていた。父と衝突して家を出て以来、自分のほうから決して連絡してこなかった信一が何年かぶりで電話を寄こしたのである。実家でのただならぬ状況に驚いた信一は急遽帰省し、捜索活動に加わった。 酷暑のなか、10日以上にわたって警察ほか消防団や親族・知人も協力して駐車場周辺を捜索したが、発見されたのは、裏返しになった修一のサンダルの片方だけであった。バッグにはるみ子の財布や小物が入っており、カメラのフィルムを現像すると、デート中に互いを撮影しあった写真がおさめられていた。警察犬は、何度もサンダルがひっくり返った地点で止まった。捜索活動には巡視艇まで加わったが、何の手がかりも得られなかった。連日、大捜索がなされたため、松林には新しく小道ができたほどであった。状況からは「強盗」や「蒸発」は考えられず、両家とも2人の交際を喜んでいたので「駆け落ち」「心中」の可能性もなかった。警察の記録には「事件性を含む失踪」とあった。まるで神隠しのような事件であった。母は気も狂わんばかりになっており、厳しく怖かった父は打ちひしがれ、力なく、寂しそうにしていた。るみ子の名が出るたびに母は涙を流し、るみ子の話題は家族の中ではいつしかタブーとなっていた。るみ子の遺留品を母は絶対に受け取ろうとはせず、成人式のときの晴れ着姿のるみ子の写真に毎日陰膳を据えた。父が一番大事にしていた写真であった。 るみ子失踪から約1年半後、突然、サンケイ新聞の阿部雅美記者が取材に訪れた。同時期に起きた、新潟県柏崎市の蓮池・奥土、福井県小浜市の地村・浜本、そして鹿児島の市川・増元のアベック失踪事件を追っているという。富山県雨晴海岸ではアベック拉致未遂事件が起きており、現場に残された犯人の遺留品は日本製のものがなく、工業力の遅れた共産圏の製品がほとんどを占めていた。阿部は北朝鮮の関与を指摘した。家族は半信半疑ながら、「もし、海難事故や暴力沙汰に巻き込まれたのでないとしたら、それは生きているということではないか。生きているのならば、いつかまた会える」と考えると一条の光が射し込む思いを禁じえなかった。阿部の取材は1980年1月7日に『サンケイ新聞』1面トップの記事となった。記事に北朝鮮の名はなかったが、フミ子は妹の失踪は北朝鮮の拉致以外にはありえないと確信するようになっていた。しかし、他のマスメディアはことごとくサンケイ記事を黙殺し、いわゆる「後追い報道」はひとつもなかった。 なお、2002年10月19日付「南日本新聞」は、拉致事件の前後約1週間にわたって吹上浜付近の海域に北朝鮮の船が来ていたことを警察の一部はつかんでいたことを報じた。
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