妹の失踪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 15:43 UTC 版)
1978年(昭和53年)6月、妹の八重子(当時22歳)が高田馬場のベビーホテルに2歳半の娘と1歳の息子・耕一郎を預けたまま失踪。八重子の保証人となっていた飯塚は、八重子の残した借金や部屋代を肩代わりした。7月4日、飯塚は警察に捜索願を出した。しかし、何の手がかりも得られないまま半年が過ぎたので親族会議を開き、その結果、八重子の長男・耕一郎は飯塚が、娘(耕一郎の姉)は飯塚の妹が引き取ることとなった。飯塚の3人の子はそれぞれ9歳、8歳、7歳になっていたが、飯塚は子どもたちに事情を話したうえで大きくなるまでずっと内緒にしてくれるよう頼み、妻とも八重子の子を自分の子どもたちと分け隔てなく育てようと話し合った。 1987年(昭和62年)、大韓航空機爆破事件の発生を機に八重子が北朝鮮に拉致されたことが発覚する。当初は妹の失踪と大韓航空機の事件とが結びついていることなど思いも寄らなかったが、爆破の実行犯だった金賢姫の記憶にもとづいて描かれた「李恩恵」のポスターを見て直観的に「似ている」と感じた。しかし、警察からの事情聴取に対し、多感な年ごろの子どもたちへの影響も考えて一度は「李恩恵」が八重子であることを否定した。 しかし、1990年アジア冬季競技大会のニュースを視聴した金賢姫が、千歳空港という名によって、日本人教育係「李恩恵」が日本人女性のかわいい名前として教えてくれたのが「ちとせ」であることを思い出した。金賢姫は「李恩恵」の本名を知らなかったが、「ちとせ」はキャバレー時代の八重子の源氏名だった。捜索活動を再開した警察は再び田口八重子に辿り着いた。こうして、飯塚たちに対する事情聴取が再開した。警察はソウルにあった金賢姫のもとに捜査官を派遣して、田口八重子の写真と「李恩恵」とを照合させた。 1991年(平成3年)5月15日、警察庁と埼玉県警察が記者会見を開き、匿名報道を条件に「李恩恵」が田口八重子であることが判明したと発表した。この直後より田口八重子の家族はマスメディアの大攻勢にさらされた。八重子の生家には車が何台も詰めかけ、深夜にも関わらず玄関の戸が叩かれ、テレビカメラが回された。近隣の住民にも聞き込みが行われ、親戚中に取材陣が押しかけた。飯塚の母ハナが身を寄せていた養老院や病院にまでマスコミ陣が押し寄せた。 「李恩恵」身元断定の発表のなされた5日後(5月20日)、日朝国交正常化にむけた第3回交渉において、日本側が北朝鮮に対し「李恩恵」の消息調査を持ち出したところ、北朝鮮の交渉担当者が怒り、席を蹴って退室してしまった。このニュースを聞いた飯塚は、それほど怒るのならば「李恩恵」にまつわる話は本当なのだろうと判断した。 1992年11月、実務者レベルの非公式交渉で日本側が李恩恵問題に触れたところ、北朝鮮は再び怒って、一連の国交正常化交渉はこの第8回交渉をもって決裂した。この年、飯塚の母ハナは八重子に会えないまま帰らぬ人となった。当時のメディアでの報道は「李恩恵」は大韓航空機爆破事件に深く関わった人物として描かれ、八重子が自ら進んで事件に加担したような書き方をする記事もあって親族たちを傷つけた。ニュースは匿名でなされたが、八重子が水商売に就いていたこともあって、風評は不当に悪意のこもったものになりがちであったという。飯塚は取材陣に対し、妹は何も悪いことはしておらず、北朝鮮に無理やり連れていかれた被害者であり、妹を勝手に連れ去った者たちが自分たちの都合で八重子を無理やり教育係に仕立てたのだと強調した。
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