拉致の発覚と身元断定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 08:26 UTC 版)
日本では、1987年の大韓航空機爆破事件の発生を機に八重子が北朝鮮に拉致されたことが発覚した。兄の繁雄は当初、妹の失踪と大韓航空機の事件とが結びついていると思いもしなかったが、金賢姫の記憶にもとづいて描かれた「李恩恵」のポスターを見て直観的に「似ている」と感じた。しかし、多感な年齢の子どもたちへの影響も考えて「李恩恵」が八重子であることを一度は否定した。ところが、1990年アジア冬季競技大会のニュースをたまたま視た金賢姫は、千歳空港という名によって、「李恩恵」が日本女性の名前として教えてくれたひとつが「ちとせ」であることを思い出した。雑談をしていた「李恩恵」が、金賢姫に「かわいい日本名を付けてあげる」と言いながら、紙に名前を書いていって「ちとせ」と書くと、突然狼狽し、あわててその名を消したというのである。その瞬間、金賢姫はそれが彼女の本当の名前なのではないかと思った。金賢姫は「李恩恵」の本名が田口八重子であることは知らなかったが、八重子のキャバレーでの名前が「ちとせ」であった。捜索活動を再開した警察は再度田口八重子へと辿り着いた。 こうして、再び事情聴取がはじまり、警察はソウルにあった金賢姫のもとに捜査官を派遣して、田口八重子の写真と「李恩恵」とを照合させた。1991年5月、田口八重子の写真を1枚入れた15枚の写真を金賢姫に示したところ、金賢姫はためらうことなく八重子の写った7枚目の写真を「恩恵先生」として指差したのだった。八重子の写真は17歳のときのものだったが、金賢姫にはすぐにわかったという。金賢姫がすでに供述していた「李恩恵」の本籍、出生地、誕生日、家族関係、身体の特徴、血液型、人柄、しぐさや癖、言葉づかい、職業、趣味や嗜好など、60以上の項目について、田口八重子と「李恩恵」の特徴が一致した。 1991年(平成3年)5月15日、警察庁と埼玉県警察が記者会見を開き、佐藤正夫警備部長が匿名報道を条件に「李恩恵」が田口八重子であることが判明したと発表した。この直後より田口八重子の家族はマスメディアの大攻勢にさらされた。八重子の生家には車が何台も詰めかけ、深夜にも関わらず玄関の戸が叩かれ、テレビカメラが回された。近隣の住民にも聞き込みが行われ、親戚中に取材陣が押しかけた。八重子たちの母ハナが身を寄せていた養老院や病院にまでマスコミ陣が押し寄せた。「李恩恵」身元断定の発表のなされた5日後(5月20日)、日朝国交正常化にむけた第3回交渉において、日本側が北朝鮮に対し「李恩恵」の消息調査を持ち出したところ、北朝鮮の交渉担当者が怒り、席を蹴って退室してしまった。こうしたことが2度繰り返されたが、兄の繁雄は、それほど怒るのならば「李恩恵」にまつわる話は本当なのだろうと判断した。当時、北朝鮮政府は大韓航空機爆破事件そのものが韓国側のでっち上げであり、工作員の金賢姫なる人物も実在しないという立場をとっていたからである。
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