妹との確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:16 UTC 版)
「オリヴィア・デ・ハヴィランド」の記事における「妹との確執」の解説
オリヴィア・デ・ハヴィランドと妹のジョーン・フォンテインは、アカデミー主演賞を受賞した史上唯一の兄弟姉妹である。最初に女優の道を選んだのはデ・ハヴィランドで、妹のフォンテインも姉に続いて女優になろうとした。しかし、二人の母親リリアンはデ・ハヴィランドのほうを可愛がっており、フォンテインが女優になっても「デ・ハヴィランド」という名前を使うことを許さなかったといわれている。このためフォンテインは別の芸名をつけざるを得なくなり、最初にジョーン・バーフィールド、後にジョーン・フォンテインという名前で芸能活動を続けることとなった。伝記作家のチャールズ・ハイアム (en:Charles Higham) は、この姉妹が幼いころからいつも喧嘩をしていたと指摘しており、フォンテインはデ・ハヴィランドのお下がりの服を与えられていたが、デ・ハヴィランドがフォンテインに渡す服をわざと破ったために、フォンテインはその服を縫い直して着なければならなかったというエピソードを紹介している。 1942年にデ・ハヴィランドとフォンテインは、同時にアカデミー主演女優賞にノミネートされた。対象となったのは、デ・ハヴィランドが『Hold Back the Dawn』のエイミー・ブラウン役、フォンテインがアルフレッド・ヒッチコック監督作品『断崖』のリナ・マクレイドロウ役で、主演女優賞を獲得したのは妹のフォンテインだった。チャールズ・ハイアムはこのときのフォンテインが「女優という仕事に心身を捧げていない自分が賞を獲得したことに対して後ろめたく感じていた」としている。また、ハイアムはこのときのアカデミー授賞式で、主演女優賞を受け取るために歩き出したフォンテインがデ・ハヴィランドからの祝福をあからさまに拒絶したために、デ・ハヴィランドは気分を害して当惑して見えたと記述している。 ハイアムはフォンテインが自分の娘とも疎遠になったとしており、おそらく娘が伯母であるデ・ハヴィランドと隠れて連絡を取り合っていたためではないかと指摘している。デ・ハヴィランドもフォンテインも自分たちの関係を公言したことはほとんどない。ただしフォンテインは1979年のインタビューで、自分たち姉妹が口をきかなくなったのは、癌に苦しんでいた母親に外科手術を受けさせようとしたデ・ハヴィランドと、当時88歳の母親には手術は無理だと考えていた自分との間で意見が対立したことが原因だと語ったことがある。そしてフォンテインは、母リリアンが死去したときにデ・ハヴィランドが、当時舞台巡業公演で各地を回っていた自分を探そうとしなかったと主張している。デ・ハヴィランドは母の死を知らせる電報をフォンテインに送ったが、この電報をフォンテインが目にしたのは二週間後で、フォンテインが母の死を知ったのは次の公演地に移動してからのことだった。 姉妹の確執は2013年12月のフォンテインの死で終焉を迎えた。フォンテインは生前に「私のほうがオリヴィアよりも先に結婚し、先にアカデミー賞を受賞しました。もし私のほうが先に死去することがあれば、すべてにおいて私に出し抜かれたと知って彼女は間違いなく激怒することでしょう」と語っていた。しかし、デ・ハヴィランドは妹の死のニュースに「衝撃を受け、悲しみに襲われています」との声明を発表した。
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