妹の救出活動へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 15:43 UTC 版)
1998年(平成10年)、45年間勤めた日産ディーゼル工業を定年退職。この年、自身の次男として育て、21歳になった八重子の息子・耕一郎に全てを打ち明けた。この事について耕一郎は「何よりもいちばん驚いたのは、そのことを、僕がこの年になるまで全然気づかなかったということ。家族のみんなが僕のことを思って、ずいぶん気を使って育ててくれたんだと思う」と語った。 2000年(平成12年)1月、「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(通称、「救う会」)と「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(通称、「家族会」)は合同で声明を発表し、拉致問題を事実上棚上げにして日朝国交正常化と北朝鮮に対して食糧支援を行おうとする一部の動きを批判した。 2002年(平成14年)9月17日、小泉純一郎の訪朝によって、北朝鮮側が田口八重子の拉致を認めた。飯塚は翌日、単身で外務省を訪れ、「私が田口八重子の兄です」と名乗った。ところが、9月19日の北朝鮮の説明は、「日本人、田口八重子は1984年に日本人の原敕晁と結婚したのち、1986年に交通事故で死亡した」というものだった。妹の死を信じることはできない、そう考えた飯塚は、この年、北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(以下「家族会」)の活動に参画し、妹の救出活動に自ら乗り出す覚悟を固めた。 2003年(平成15年)、飯塚は団長役として拉致被害者の家族を率いてスイスのジュネーブを訪れ、国連人権委員会(強制的失踪作業部会)で拉致の実態を高等弁務官に説明した。増元るみ子の姉、横田めぐみの母と弟、有本恵子の母なども、次々に訴え、国連人権委員たちは「事の重大さを今までの何倍も思い知らされた」と応え、「一人の人間として許せない」とも語った。 2004年(平成16年)11月、飯塚は以下のような要旨の発言をしている。 …自殺しようとした金賢姫が命をとりとめなかったら未だに田口八重子のことは分からないということです。お蔭様でという気持ちです。夜になると、「自分の子どもは何歳になったかしらと言っていた」と金賢姫さんの本にあります。きっと兄たちが面倒を見てくれているだろうと思っていると思います。当時1歳の赤ちゃんが、こんなに大きくなるまで解決できないというのが悲劇だと思います。侘しさと怒りがごちゃ混ぜになった気分です。もし八重子が飛行機のタラップを降りてきたら「ごめんなさい」と言うつもりです。こんなに長く助けられなくて。 2008年(平成20年)、飯塚は家族会の代表に就任。同年11月、アメリカ国防総省を訪れた飯塚に対し、 ゴードン・イングランド(英語版)副長官は「皆様の良き友人がいることを忘れないでいてほしい」と支援を約束した。 2009年(平成21年)3月、飯塚耕一郎とともに韓国の釜山広域市で金賢姫と面会した。金賢姫は耕一郎に「似ていますね、お母さんと」と声をかけ、耕一郎は「お姉ちゃんも似ているんですよ」と答えた。金賢姫はこのとき、終始一貫して耕一郎に「希望を持ちなさい」「お母さん、生きていますよ」と語り続けた。金賢姫はまた、繁雄にも田口八重子と似ていると語った。面会に先立って飯塚繁雄は「我々が、(妹が)北にいることをはっきり確定できたのは、まさに彼女の勇気ある決断、証言のおかげです。我々も、その後の救出活動ができるようになりました。まずは、当然のことですが、このことについてお礼を申し上げたいと考えています」と話していたが、その思いの通り、彼女に会うと開口一番感謝の言葉を伝えた。 2014年(平成26年)1月、アメリカのキャロライン・ケネディ駐日大使が横田夫妻や飯塚を招き、大使と拉致被害者家族との面会が成立した。
※この「妹の救出活動へ」の解説は、「飯塚繁雄」の解説の一部です。
「妹の救出活動へ」を含む「飯塚繁雄」の記事については、「飯塚繁雄」の概要を参照ください。
- 妹の救出活動へのページへのリンク