投資信託による大衆化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 05:07 UTC 版)
アメリカの株式市場は1924年中頃から投機を中心とした資金の流入によって長期上昇トレンドに入った。投資家は個人であっても株式等を担保とする信用取引により、容易に金銭を借金することができた。株式分割だけでなく投資信託の普及も大衆の市場参加を加速させていた。投信会社等は持株会社を同一のグループに複数設けてレバレッジをかけるようなこともしていた。 イーヴァル・クルーガーやサミュエル・インサルの金融帝国がジャズ・エイジを演出していた。公共事業全体が投信の津波にさらわれたのである。1928年には生命保険会社も優先株への投資を認められた。翌年にかけての投信会社増加率がピークに達した。これが主な要因となり、ダウ平均株価は1924-29年の5年間で5倍に高騰した(最終年下半期込み)。 生命保険会社については前節モーゲージの保有主体として言及したが、述べたように優先株投資も可能となると、その金融活動は投資信託に限りなく近づいた。その原動力を知る手がかりは20世紀初頭からの動態にある。いわゆる3大生保が1906年のアームストロング法によりポートフォリオの強制解体に処されてJPモルガンやクーン・ローブの軍門に下った。このプロセスを全て書くことはできないが、次の事件は注目に値する。1915年にデュポンが439万ドルの資金でJPモルガンに参加し、エクイタブル生命(The Equitable Life Assurance Society, 現:アクサ)の経営に協力する意思表明を行い、1918年に相互組織への変更体制が整い、1925年には少数株の買い取りが完了して、エクイタブル生命は完全な相互会社となった。3大生保の再編成が進む間にメットライフとプルデンシャル・ファイナンシャルが、デビットカードのもとになるデビットシステムを売りに台頭した。この新興2社は団体保険の8割強を占めるほど成長して、1928年に他8社を抱きこんだ保険料カルテルを実現した。同年に優先株投資の解禁された背景には、彼らの牽引する生保業界から当局に対する圧力があったのである。 経済史ではJPモルガンが有名すぎるために投信・生保の保有銘柄は電気事業関連が注目されがちである。しかしヴァイマル共和政の賠償支払を促すために化学工業を国際的に振興する仕組みができていたことも忘れてはいけない。クローズド・エンド型の投信会社にはデュポンのクリスティアナ・セキュリティーズ (Christiana Securities)、ベルギー系のソルベー・アメリカン・インベストメント、そしてIG・ファルベンインドゥストリーのアメリカンIGケミカルといった、欧州と関係の深いものが存在した。クローズド・エンドの投信会社でレバレッジをかけているタイプは、1927年から保有銘柄を減らしてきていた。 1927年、ジュネーブで行われた世界経済会議では、恐慌に備えて商業・工業・農業に関する多くの決議が審議・採択された。商業では関税引き下げ、工業ではコストダウン目的の産業国有化、独占禁止と生産調整の国際協定、農業では方法の改良と資金の貸付について議論された。しかし、決議そのものは各国議会から無視されてしまっていた。1927年、合衆国での新外国普通株発行額はおよそ183億ドルであったが、翌年688億ドルに跳ねあがった。 前段に見るよう、投信や国際会議の事情通は一般大衆より対応が早かったようである。世界恐慌の兆しがフロリダにあった。そこは1920年代半ばから、空前の勢いで不動産への投機が流行し、泡のように土地の価格が上昇していた。1926年9月18日ハリケーンが襲い (1926 Miami hurricane)、翌月に第2弾が到来した (1926 Havana–Bermuda hurricane)。 それらは土地バブルをつつき割って、1927年に主な不動産会社を倒産させた。1928年フロリダで31件の銀行が倒産した。1929年には57件にも達した。市は公債だけで不動産事業を遂行しようとしていたが、財政的な裏づけというのが実は、ゴールドマン・サックスが作ったような投信ピラミッドに公共事業を連結させるという手法であった。目論見は自然災害で吹き飛んだ。 1928年、ブラジルでコーヒーの過剰生産による恐慌が起こった。南アメリカ投資のあった分は、1893年恐慌に類似する。
※この「投資信託による大衆化」の解説は、「世界恐慌」の解説の一部です。
「投資信託による大衆化」を含む「世界恐慌」の記事については、「世界恐慌」の概要を参照ください。
- 投資信託による大衆化のページへのリンク