アームストロング法
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「1907年恐慌」の記事における「アームストロング法」の解説
1880年代のアメリカにおける証券引受は、次に掲げるような個人銀行が行っていた。JPモルガン、クーン・ローブ、シュパイヤー(Speyer family, 全盛においてはロスチャイルドよりも富裕であったといわれる)、セリグマン(J. & W. Seligman & Co.)、キダー・ピーボディ(Kidder, Peabody & Co., 現UBS)などである。しかし彼らは1893年恐慌で資金を引き上げてしまった。そこで資金がないなりにアメリカ産金融機関の経営統合が進んだ。この中で三大生保が保有契約と総資産の両面にわたり顕著にシェアを拡大した(1900年、両面で五割に迫る)。ミューチュアル生命(Mutual Life Insurance Company of New York, 現アクサ)、エクイタブル生命(The Equitable Life Assurance Society, 現アクサ)、ニューヨーク生命(New York Life Insurance Company)である。生保は銀行株を保有することによって、商業銀行と信託銀行を系列化した。こうして生保は証券引受に直接介入するだけの独占体制を確立した。もともと三大生保は先に列挙した個人銀行家と一緒に鉄道債を引受ける力があった。 1905年8月1日、アメリカ上院議員アームストロング(William W. Armstrong)が委員長となり、「生命保険会社の経営活動を調査するために任命されたニューヨーク州上下院合同委員会(The Joint Committee of the Senate and the Assembly of the State of New York appointed to investigate the Affairs of Life Insurance Companies)」が設置された。この委員会は9月6日から12月31日にかけて、関係者を召還しての公聴会を含む57回の会合を開いた。10巻にまとめられた報告・勧告は、おおよそ次のようなものであった。粗末なコーポレート・ガバナンスは比較的小さい論点となった。事業費が濫費されたことが指摘され、一因として据え置き配当積立金が槍玉にあがり全廃まで勧告された。コンツェルン化にともなう創業者利得も焦点となり、株式投資の禁止と保有株式の処分、証券引受活動の禁止、自由な証券売却を妨げる協定の禁止などが提言された。委員会の勧告は若干の修正を加えられ、1906年の改正ニューヨーク州保険法として実施に移された。 ジョージ・パーキンス(George Walbridge Perkins)の活躍で、ニューヨーク生命とミューチュアル生命は大規模な対外投資を行っていた。パーキンスはニコライ2世と直に相談して、ロシアに確固たる地歩を築いていた。生命保険業のゆきすぎた活動が委員会の調べにより徹底摘発された。調査官らは、保険会社全体の毎年の新規取扱い高を1.5億ドルに制限すべきであると勧告した。この制限は1907年1月1日に課せられた。こうしてエクイタブル、ミューチュアル、ニューヨーク生命は、国内および海外での販売を削減した。ミューチュアル生命は、海外にこれ以上の担保供託をしないことを決めた。エクイタブル生命は1912年までに海外進出の中止を決意した。しかし、パーキンスのニューヨーク生命だけは、国際事業活動に断固として踏みとどまった。 法令順守のため生保は数年かけて保有株式を売却した。そしてミューチュアル生命とニューヨーク生命はモルガン系列となった。この二社とも、1915年末の総資産に占める証券の比重は五割を超えた。エクイタブル生命は内紛とアームストロング法によりクーン・ローブおよびナショナル・シティー(ロックフェラー家)と関係を深めた。1911年、ニューヨーク保険監督官がエクイタブル生命に対し銀行株の保有を各銘柄について5%にまで減らすよう勧告した。これが追い討ちとなり、エクイタブル・コンツェルンは分解されてモルガンとロックフェラーとクーン・ローブに支配された。 1912年春、後述のアメリカ信託会社(#信用回復への取り組み)がエクイタブル信託に吸収された。エクイタブル信託は1930年ジョン・ロックフェラー2世のチェース・ナショナル(現JPモルガン・チェース)に買収された。
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