生保の遵法と売国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 00:14 UTC 版)
1905年、JPモルガンがドレスナー銀行とコルレス契約を結んだ。これをきっかけとして全米の資金がドイツ帝国へ投下されてゆくのであるが、資金をまとめ出したのは翌年からであった。皮肉にも、1906年のアームストロング法が資金集めに貢献した。大手生命保険会社の保有する株式がジョン・モルガンやジョン・ロックフェラー、そしてクーン・ローブに売却された。この株式には信託会社株も含まれた。さらに、彼ら金融資本の保有した鉄道債が、今や彼らの実質的な傘下企業となった大手生命保険会社に売却された。株と債権の売り圧力は市場を緊張させた。一方、生命保険会社は1906年の法律で証券引受業務を禁じられた。証券投資をしたい場合は金融資本家の証券を購入したが、それは金融資本家らが傘下の生保に「買いオペ」させたわけである。このシャドー・バンキング・システムが、ドイツへ資金を供給したのであった。生保が他に稼ぐ方法といったらモーゲージ貸付しかなくなった。生保の非農地モーゲージ貸付は当然に長期の契約となった。金融資本家のドイツ投資も、生保のモーゲージも、見かけ上は短資であったが、資金は各地域の開発、特に電化に使われたので、契約は更新されて資金の流動性が失われていった。 1907年10月、ビュートの銅山王(Copper King)とも呼ばれたF・アウグスタス・ハインツらがユナイテッド銅社株の買占めを謀った。この株買占めは失敗に終わり、ハインツが頭取であったマーカンタイル・ナショナル銀行をはじめ、買占めに資金を提供したとされる銀行で取り付け騒ぎがおきた。翌週にはニッカーボッカー信託会社が営業停止に追い込まれ、恐慌が表面化した。ニッカーボッカー信託会社の倒産による関連金融機関での取り付けは連鎖していった。地方銀行は都市銀行から、全国の都市銀行はニューヨークの銀行から預金(バンカーズ・バランス)の回収をはかった。このためほとんど全国的に銀行で支払制限が行われ、多くの銀行が準備金の枯渇により破産した。ニューヨーク証券取引所株価は、前年度最高値と比較して50%まで暴落し、多数の銀行や信託会社で取り付け騒ぎが発生した。ニューヨークに端を発したこの恐慌はやがてアメリカ全土に広がって、多くの州法銀行、証券会社また地方銀行や企業が破綻し、失業者の数は300万人から400万人にのぼった。
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