ユナイテッド銅社株の買占め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 00:14 UTC 版)
「1907年恐慌」の記事における「ユナイテッド銅社株の買占め」の解説
1907年の恐慌は、F・アウグスタス・ハインツ(F. Augustus Heinze)所有のユナイテッド銅(United Copper、ユナイテッド・コッパー)社の株買い占めがきっかけとなって始まった。F・ハインツはモンタナ州ビュートの銅鉱山で財を成した実業家で、1906年にニューヨークに移り、悪名高いウオール街の銀行家チャールズ・W・モース(Charles W. Morse)と密接な関係を築いていた。モースは製氷会社の設立や蒸気船会社の買収などで成功を収めていたが、モースとその仲間は、一つの金融機関の株式を買い付け、それを担保に借りた金で別の金融機関の株式を買い付ける手法で銀行ネットワークの支配権益獲得を計画していた。ハインツもこの計画に相乗りし、1907年初めには少なくとも6つの国法国立銀行、10の州法銀行、5つの信託会社、4つの保険会社を支配下においた。 ユナイテッド銅社の株主であり又役員にも就いていたアウグスタス・ハインツの兄オットー・ハインツは、ハインツ・モース連合の株の動きをチェックしていた際に、ユナイテッド銅社の株式が非公開で貸し出され、空売りされているのではないかと考えた。こうしたトレーダーは、借りた株の値がいずれ下がると予測して市場価格で株を売り、実際に値が下がれば株の返却を求められても下落した価格で買い戻して差額が自分の利益となる。オットーは、ユナイテッド銅社株の大多数を保有するのは自分たちハインツ兄弟であると信じ、ハインツ兄弟側が積極的に株を買い進め株の大多数を本当に所有することで、空売り側がユナイテッド銅社株入手に動かざるを得ない状況をつくろうとした。(買い方が売り方を攻める戦術を「玉締め」という)ハインツ側が大多数の株を買い占めれば、株の返却を求められた空売り側は株を高値で買い取るか、ハインツ兄弟の言い値で直接清算せざるを得なくなり、兄弟は大きな利益を手にすることができる。 オットー、アウグスタス、そしてチャールズ・モースはこの計画への資金提供を求めて、かつてモースの計画に資金を提供したことがある、ニューヨーク市で3番目の規模を持つニッカーボッカー信託会社の社長チャールズ・バーニーに面会した。会合でモースは、オットーに玉締めをやるにはもっと資金が必要であると告げ、バーニーは資金拠出を断り、アウグスタスもこのときはこの計画を拒絶した。だが、10月12日土曜の取引で空売りがまたおこなわれているとみたオットーは、たとえ一人でも買い占めと玉締めをおこなうことを決意し、グロス・クリーバーグ商会に月曜にユナイテッド銅社株を買占めるよう指示した。10月14日月曜日、ユナイテッド銅社の株価は1株あたり39ドルから52ドルへ上昇した。10月15日火曜日、玉締めの準備が整ったと考えたオットーは、ユナイテッド銅社を保有していた証券会社20社に対してその保有株を午後2時に委譲するよう通告した。火曜午前は50ドルで取引が始まり、落ち着いた動きであった。だが、オットーは市場を読み誤っていた。午後、20社すべての証券会社が通告通りに要求された株を供出してきたのである。株価は一時59ドルまで値を上げたが、委譲された株があまりに多いためハインツ側が受取を拒否せざるを得なくなり、証券会社は行き場を失った手持ち株をすべて市場に売却した。ユナイテッド銅社株は瞬く間に暴落し、株価は数分のうちに50ドル、45ドル、そして36ドルまで値を下げた。 翌10月16日水曜日、ユナイテッド銅社株は30ドルで取引が開始されたが、その直後20ドルに下がり、一時は10ドルまで暴落した。オットー・ハインツの目論見はもろくも潰えた。ユナイテッド銅社株はニューヨーク証券取引所の店頭で取引されていたが、ウォールストリートジャーナル紙はこの時の様子を次の様に報じている。「店頭市場でこのような事態は、長く見られなかったことである。実際、店頭を専門にしてきた古株たちは、こんなことは今まで見たことがないという。」
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