伝統的な国際債券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 01:53 UTC 版)
狭義の外債は通常は債券引受先の通貨単位で額面を表示する外貨債(がいかさい)という形式を取るが、まれに債券発行元の所属する国家の通貨単位によって額面を表示する。内貨債(ないかさい)という形式も存在する。 1818年のプロイセン王国債500万ポンドは、マーチャント・バンク(merchant bank)のロスチャイルドが同国へ初めて外債を導入する形で発行された。ロスチャイルドは50万ポンドを引きうけ、残りは欧州全域銀行やマーチャント・バンク、さらにパリとフランクフルトに配分された。すなわちハルディマンド(William Haldimand)が42.3万ポンド、アイザック・ソリー商会(Isaac Solly)が42.3万ポンド、サミュエル・アンド・ジョン・ウォード(Samuel & John Ward)が28.2万ポンド、バランドンが25万ポンドを受け持った。シティの他の15社で50万ポンドを担当し、また20人くらいの貴族も参加した。残りは大部分でパリとフランクフルト、さらにアムステルダム、ベルリン、ミュンヘン、ハンブルクで購入された。多くの買い手は今も知られる名前で、メンデルスゾーン、パリシュ(David Parish)、ベートマン(現ABNアムロ銀行)などであった。ロスチャイルドの参入は外債市場の競争を激化させたが、同家と争ってハンブロ商会(現ソジェン)は1852年サルデーニャ王国債の発行引受を勝ち取った。 近代に発行された外債の集合体で最大のものは、オスマン債務管理局が抵当税収を占有し利払償還業務を担った。 それから第二次世界大戦まで、外債発行はイングランド銀行とイギリス大蔵省が調節していた。しかし、発行した外債を市中消化させるのはマーチャント・バンク、あるいは投資銀行とその系列の証券会社であった。イギリスのマーチャント・バンクは国内保険会社と親しかったが、第一次世界大戦で保険会社は国債を消化するので精一杯であった。これに対してアメリカの場合、戦時国債を大して発行せずにすんだので、アームストロング法により系列化した保険会社は巨額の外債を消化することができた。二度の世界大戦はそれぞれの戦後処理を通して、発行業務を出口業務から蚕食させていった。オフショア市場がいくつもある今日の国際債券市場において、外債市場は各国の規制をともなう小さめの市場である。 資本が自由化されていない国へ機関投資家が資本投下をする場合、株式は系列間で持ち合いが行われており、市場が狭すぎてキャピタル・ゲインを狙うのが精一杯である。そこで公社債から切り込むことになるが、そのときに外債を発行させた。 自由化のされていない国は今や限られているので、国際債券市場の大部分はユーロ債市場となっている。
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